「ラヴクラフト全集」 Howard Phillips Lovecraft

ラヴクラフト全集1   The Shadow Over Innsmouth and Other Stories

1923年〜1931年
1974年12月 東京創元社 創元推理文庫
<内容>
 「インスマウスの影」 The Shadow Over Innsmouth (1931)
 「壁のなかの鼠」 The Rate in the Walls (1923)
 「死体安置所にて」 In the Vault (1925)
 「闇に囁くもの」 The Whisperer in Darkness (1930)

<感想>
 一度は読んでみたかったラヴクラフト、一度は読まなければならないラヴクラフト、そうずっと思いつつ、2011年になってようやく第1集を読むことができた。
 読んでみると、今までホラー、SF、エンターテイメント小説で聞いたことのある単語の数々がちりばめられていることに気づく。これらの祖がまさにラヴクラフトの小説につまっていると今更ながら気づかされた。

 本書は2編の中編と2編の短編とが掲載されている。まだこの頃は各作品の関連性や時系列とかそういったものは意識していなかったのだろう。ゆえに、バラバラのホラー短編を読んだという印象。その全てが、ラヴクラフト自身が抱えていた狂気から生まれてきた産物。一見、単なる妄想ともとれるような内容でありながらも、どこか薄気味悪いリアリティを感じさせる内容。

 ベストというか、私自身のラヴクラフトに対する印象が書きつくされていると感じられたのは最初の「インスマウスの影」。これにラヴクラフトの全てがつまっているようにすら思われる。人間でありながら、魚人というものをイメージさせるような者達。闇夜の不気味な行進。インスマウスという、その名前すら不気味なものを感じさせる町で起きる怪異が描かれている。

「壁のなかの鼠」「死体安置所にて」は「インスマウスの影」に対しての小さなエピソードを思わせる。書かれた年代からすると、この2つのほうが先のようなので、ここから「インスマウス」が発展して生まれてきたというところか。

「闇に囁くもの」は内容は「インスマウス」に似ているものの、地球を飛びだすようなSFチックな内容になっている。そのため、荒唐無稽さが大きく感じられてしまい、「インスマウス」ほどの不気味さは感じられなかった。

 当然のことながら全集の1巻である、この作品こそがラヴクラフトの入門となるはずであるのだが、これだけ読んでも全くと言ってよいほど全貌がつかめない。2作目3作目と読み進めていって、ぜひともクトゥルー神話の体系を体感してみたいものである。すぐには読めないと思うので、ライフワーク的な読書の一端ということで。


ラヴクラフト全集2   The Case of Charles Dexter Ward and Other Stories

1921年〜1928年
1976年08月 東京創元社 創元推理文庫
<内容>
 「クトゥルフの呼び声」 The Call of Cthulhu(1926)
 「エーリッヒ・ツァンの音楽」 The Music of Erich Zann(1921)
 「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」 The Case of Charles Dexter Ward(1927〜28)

<感想>
 久々に読んだラヴクラフト全集の2冊目。最初の「クトゥルフの呼び声」は、このシリーズの入門編としてもよさそうな内容。邪神信仰の恐ろしさが顕著に表れている。

「クトゥルフの呼び声」は、亡くなった大叔父の研究書を読んでいくうちに“クトゥルフ”の存在に気づいていくというもの。語られるエピソードは、とある同じ時期に複数の芸術家たちが奇妙な夢を見るという事件、とある警察官が体験した邪教信仰集会の手入れと奇怪な彫刻、海で船乗りたちが体験した事件。これらの事件から語り手が邪教の存在に気づき始め、怯えてゆくというもの。全体的に物語という流れというよりは、エピソード集というような感じである。

「エーリッヒ・ツァンの音楽」は、実際には関連はないと思えるものの、「クトゥルフの呼び声」で描かれていた芸術家たちのひとりのエピソードのようにも感じられる。とある男が幻の町で体験した綺譚が描かれている。短めの作品。

「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」は、こちらも「クトゥルフの呼び声」と同様、邪教の存在に徐々に気づき始め、それを調べ始めていた者が狂気に陥るという内容。ただ、こちらは物語として成立しており、エンターテイメント小説としても楽しめる。本作品集の大半を占める作品。

 これらを読んで感じるのは、ラヴクラフトが遺した成果というものが邪教の具体化にあるのではないかということ。通常、霊とか超自然的なものを描くとすれば、やや漠然としたものになるのが普通である。それを具体的に邪教の存在とその偶像自体をあらわにし、恐怖をあおっていることこそ、これら作品群の真価ではないかと。




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