<内容>
私立探偵のシェルダン・ウェズリーは元有名女優のヴァレリー・キングからパーティーの誘いを受ける。その招待状には妻と共に出席してもらいたいと書いてあり、シェルダンは妻のダイアナと共にパーティーへと出かけることに。パーティーには多くの人々が集まっていたものの、当のヴァレリーの姿が見えない。不穏なものを感じたシェルダンが屋敷の周辺を探索すると、そこでヴァレリーの死体を発見することとなる。警察に通報したシェルダンは、この殺人事件に関わることとなり、ヴァレリーの背景と、その周辺の人物らの調査をしてゆくこととなり・・・・・・
<感想>
ヒラリー・ウォーといえば、警察小説で有名な作家。本書はその処女作であり、ヒラリーが警察小説にたどり着く前の作品。初期は、ハードボイルドっぽいミステリを書いていたようである。
本書に関しては、正直なところ、さほど面白いとは言えないものであった。何よりもジャンルが中途半端という感じであり、ハードボイルドとしては微妙、サスペンスとしても中途半端、そんな感触がつきまとう。何よりも、私立探偵のハードボイルド作品として、たいして役に立たない妻を連れまわしながら調査へおもむくというスタイルが受け付けなかった。この夫婦で連れ添って捜査というところは、なんらかの効果を期待してなのかどうか聞きたいところである。
それでも、最終的に真犯人を当てるところは、何気にきちんとミステリしていたなと感じてしまう。最後だけ、きちんとはまっていたという気がしてならない。ゆえに、ミステリとしてはさほど悪くないはずなのに、主人公の人物造形というか、そのスタイルがうまくいっていなかったのではないかと思えてしまう。
ちなみにこの主人公で、本書を含めて3冊書いたのちに、「失踪当時の服装は」書いて、ようやく作家として売れたとのこと。そんなヒラリ・ウォーの作家としての変遷を垣間見ることができる作品。
<内容>
1950年、マサチューセッツ州のカレッジにて、寮から大学に通っているローウェル・ミッチェルが失踪した。彼女が出かけたところを誰も見た者がいなく、どこかへ旅立った痕跡すらない。彼女はまじめな学生で、突然姿をくらますような人物ではないと、同級生や教師たちは語る。駆けつけてきた両親が心配する中、ブリストル警察署長フォードらによる必至の捜査が始められる。しかし、彼女の痕跡をつかむことができず・・・・・・
<感想>
この作品、伝説的な警察小説なのであるが、以前に読んだのか読んでいないのかはっきりしないので、思い切って購入して読んでみた。今になっても手に入りやすいところはありがたい、というかそれだけの名作ゆえにということなのであろう。ちなみに再読しても、前に読んだか、読んでいないかのかは、結局よくわからなかった。
そんなわけで、初読として読むことができた作品。たぶん、今の人がこの作品を読んでも特に感銘は受けないと思われる。ただ、この作品の特徴としては、当時このような警察を主体として書かれた作品はあまりなく、それゆえに注目されたというもの。確かに、警察小説でなければ、通常は被害者の家族や友人にスポットを当て、そこから被害者の背景を描いていくという書かれ方をされるであろう。それを、あえて被害者の方にスポットを当てずに警察組織のほうを主体に描いたことで注目をあびたということである。
別に警察組織にスポットを当ててもそんな違いはないだろうと思えるかもしれないが、本書を読むと、警察組織側から全くなんの痕跡もつかめない事件を描くのは大変な事だということが理解できる。その途方もない事件を捜査し、うまく読者を飽きさせないように描いているところこそが、本書の凄いところと言えよう。
最近、読んだせいかもしれないが、これを読んでいてコリン・デクスターのモース警部シリーズを思い起こした。実は、この「失踪当時の服装は」こそが、そういった作品群の始まりとなったものと言えるのであろう。国内外問わず、様々な警察小説が出ている今だからこそ、一読しておく価値のある警察小説である。
<内容>
1953年、コネチカット州ピッツフィールドの公園にて、若い女の死体が発見される。死体の顔はひどく損傷されており、身元が判明できない状況。ダナハー警部が捜査を開始するも、被害者の身元がつかめないために捜査は瞬く間に暗礁に乗り上げる。そんなときに、若いマロイ刑事が死体の頭蓋骨から顔を復元させようと提案する。ダナハー警部は渋るものの、なんとかマロイ刑事が被害者の顔を復元したことにより、遺体の身元が判明し、捜査が動き出すこととなり・・・・・・
<感想>
2023年の復刊フェアで購入した作品。ヒラリー・ウォーによる定番とも言える警察もの。
この作品を読み始めたときに想起したのが“ブラックダリア事件”。細かいところは異なるものの、芸能関連の仕事を目指そうとしていた女性が無残な死を遂げるという状況が似ていると感じられた。あとがきでも、そのことに一応は触れていたが、著者自身が特に言及したという事実はなさそうである。
女性の死体が見つかるものの、顔が破損しているために、被害者の身元がつかめないという状況。そこで若手刑事が上司の反対を押し切って頭蓋骨から顔の復元を行うことを試みる。現代でこそあたりまえの技術であるのだが、当時はまだ定番と言われるものではなかったようである。
この顔の復元についてもそうなのだが、ベテランのダナハー警部と、若手のマロイ刑事が度々意見を衝突させながら捜査を進めていく様子が本書の特徴とも言えよう。時にはベテランのほうが正しく、時には若手の斬新な考え方の方がうまくいったりと、そのへんの駆け引き的なものが目を惹くものとなっている。
地道ともいえる警察捜査のみで決着が着く内容かと思いきや、最後に一幕どんでん返し的なものが待ち受けている。読み終えてみれば、何気にミステリ的な要素も強い作品であったということがわかる作品となっている。
<内容>
雨の降り注ぐ深夜、ソレンスキー家に不審な男が訪ねてきた。メガネをかけ、カイゼル髭を生やした男は「ロペンズのうちはどこかね?」と聞いてくる。家の場所を教えたのだが、男は再び戻ってきて、再度話をして出ていく。すると、今度はロペンズの妻がやってきて、夫が撃たれたと訴えてくる。不審人物により銃撃された事件。その男に誰も心当たりがなく、亡くなったロペンズも人に恨みをかうような男ではなかった。ストックフォード警察署の署長、フェローズが捜査を進めてゆくも、犯人の手がかりが全くなく・・・・・・
<感想>
2022年復刊フェアで購入した作品。ヒラリー・ウォーの作品を読むのは「生まれながらの犠牲者」に続いて2作目。今作も警察小説となっている。
事件の取っ掛かりは面白い。いかにも変装しているような不審な男が訪ねてきて、銃で被害者を殺害するという事件。しかし、誰もその男に心当たりがなく、被害者が誰に恨みをかっていたのかさえ分からない。被害者の弟と間違って、殺害されたのか? それとも美しい妻の存在が事件を引き起こしたのか? もしくは事件そのものが狂言なのか? というような事件。
序盤はそんな感じで事件が起きて面白かったのだが、中盤は捜査が停滞しすぎていて、やや退屈であった。犯人が色々と手がかりを残しているような感じもするものの、決定的な証拠はない。何よりも、事件の動機があいまいというか、検討をつけることさえできないので、どこから捜査をしたらいいのかわからないという状況。警察は、ありとあらゆる事象を取り上げ、こつこつと捜査を積み上げてゆくこととなる。
そうして、終盤になり捜査は急展開し、犯人の存在が浮かび上がることとなる。そこで犯人が捕まってお終いかと思いきや、そこからもう一波乱用意されている。この終盤の真犯人を巡る攻防が本書の一番の見所と言えるかもしれない。それまで普通の警察小説という感じであったが、最後にきて、通常の警察小説とは異なる色合いに染めることとなる。一見、地味な作品でありつつも、最後まで読み通すと印象深い作品であった。
<内容>
ストックフォード警察署署長、フレッド・C・フェローズのもとに13歳の少女が行方不明になったという連絡がもたらされる。フェローズはすぐに厳戒態勢をしき、少女の行方を捜し始める。しかし、なかなか手掛かりは見つからず、頼みの母親も何故か娘のことをあきらめたかのように非協力的であった。そうしたなか、フェローズは、周囲の現場検証を行い、目撃者を探し始める。また、それと同時に失踪した少女のバーバラとその母親エヴリンらの詳細な身辺調査を始め・・・・・・
<感想>
2019年に新訳として復刊されていたので購入。このヒラリー・ウォーという人の作品、読んだことがあるかどうか微妙。ひょっとすると遠い昔に「失踪当時の服装は」というこの人の代表作を読んだことがあるかもしれないが、それも定かではない。
本書は、片田舎で起きた少女の失踪事件を描いた作品。その失踪事件に対し、警察の捜査を中心的な視点として展開がなされてゆく。ゆえに、1960年代に書かれた警察小説というジャンルの作品。
これを読むと、失踪事件捜査の難しさというものがわかる。確たる証拠や、決定的な目撃者がいなければ、これほどまでに途方にくれるような捜査になるのかと。実際のところ、本当の失踪事件というものなどは、こういった捜査状況になるのかもしれない。
そんな途方もない事件となりつつあるものの、警察署長のフレッドは、執拗に捜査を進めていく。行方不明者の関係者の背景やこれまでの人生を必要以上に掘り下げ、それとは別に近隣の目撃情報なども事細かに捜査してゆく。そして、ひとつひとつの証拠や目撃情報をしらみつぶしに調べていった結果、フレッドはとある結論へと行きつくこととなる。
本書で執拗に掘り下げられる行方不明者の経歴、そしてタイトルの意味、こういったものが結末に重くのしかかってくることとなる。最後の最後で明らかになる真相は、とにかく何とも言えない後味を残すものとなっている。
<内容>
平和なクロックフォードの町で起きた殺人事件。ベビーシッターをしていた少女が暴行され、殺害されていたのが発見された。その事件によって、動揺する町にさまざまな噂が駆け巡る。最初は、町の外から来たものが起こした事件かと思われていたが、やがて“この町の誰かが”やったのではないかと疑心暗鬼に陥り・・・・・・
<感想>
2024年の東京創元社復刊フェアで購入した作品。ヒラリー・ウォーって、古典ミステリの書き手という認識であったが、作中でジョディ・フォスターという名前が出てきて、あれっ、と思いびっくり。よく見れば、1990年に書かれた作品。ちなみに、この作品がヒラリー・ウォー名義で最後に書かれた作品のようである。
本書はちょっと変わった趣向の作品となっている。町に住むさまざまな人が、事件について語るという形式で進められるという構成。ゆえに、普通の警察小説やミステリ小説とはちょっと異なる形となっている。これは、実験的というか、マンネリ化を打開するような感じで書かれたのかもしれないと思われるようなもの。
こういうインタビューに近いような形式で書かれる作品であると、かなり感情的に語られるようになってしまうので、読んでいてややきつかった。ただ、その感情的な面を利用して、町で起きる様々なパニックの様相を伝えるという意味合いでは、かなり効果があったと言えよう。よって、事件に対してのミステリとか、警察小説というよりも、全体的にはパニック小説のような感が強かったかなと。
とはいえ、最終的には、きっちりとした結末を用意している。さらには、一筋縄ではいかないような形で終わるようになっている。こういったところはさすがだと言わざるを得ない。全体を通して、なかなか予想だにしないようなミステリを展開させてくれた小説であったなという印象。