ここ何年か私にとってのワースト作品といえば、清涼院流水氏の「ジョーカー」であった。しかし、2002年2月にそれを超える“無人島におきざりにしたい一冊”、“戦場に投げ捨ててきたい一冊”が登場した。それは霧舎巧氏の「名探偵はもういない」である。
ただし、これに作品についてもともと偏見をもって読んでいたということもいわざるをえない。「ドッペルゲンガー宮」でデビューした霧舎氏。そのデビュー作は、本格作品に対する意欲作であり構想においては面白いと思い、かなり評価をしていた。しかしその後の「カレイドスコープ島」「ラグナロク洞」「マリオネット園」では荒ばかりが目立ち、さらにいえばそれらが一切改善されないままここにいたるという現状である。この前に出版された「マリオネット園」もネタとしては面白いのだが、そのネタの見せ方がうまくなく残念に感じていた。そしてここに「名探偵はもういない」が出版されることになる。
<あかずの扉>研究会から初めて離れた本書はどうであっただろう。しかし、この序盤は・・・・・・
「犯罪学者」を名乗る男が登場するのはよいのだが、そこから突然のやすっぽいラブロマンス・・・・・・。この展開では<あかずの扉>研究会と全く変わらないではないか。<あかずの扉>研究会が好きになれなかった一端は、このわけのわからない描写のなかでの唐突なラブロマンスというもである。それがノン・シリーズのなかでも繰り返されている。しかも100ページにわたって! 序盤はこれだけ。ひょっとしたら後半部分はそこそこ評価すべき点もあったのかもしれないが、この序盤により読む気をへこまされたので色眼鏡で見ざるを得ないことになったのかもしれない。この唐突な恋愛模様に耐えうる人(もしくはこれが好きな人)は本書に対して悪い評価は抱いていないかもしれない。
以下ネタバレです
そして本題に入り、あまりにも鼻につく脅迫者のおばさんが殺害される。さらには死体で見つかるのは主人公かと思えた“犯罪学者”。って、ここでその犯罪学者が死んでしまえばなんの代わり映えのない話になってしまうではないか。
しかしながらそこに“名探偵”が登場する。これがまた“エラリー・クイーン”もどき。この話しでは登場人物の名前が伏せられているのだが、その一つはこの“エラリー・クイーン親子”の登場のためであろう。しかしながら最後まで読んでも、たいして登場人物の名前が伏せられている効果というのは見出せなかったのだけれども。
そして相かわらずの筆力で雪に閉ざされた館の中を右往左往し、物語は進められてゆく。しかし、この雪に閉ざされた館であるはずなのに、平気で館の主人が戻ってきたり、犯罪学者の妻が突如現われたりとめちゃくちゃな様相を見せてくれる。
そして「読者への挑戦」が提示され、事件は解決へと導かれる。
この解決の中で特に気になるのは、論理的に解決される事項の大半が“知恵遅れの者が行動したがために、行動が限定されたり、通常の行動がなされない”というものによっていることである。こんな解決の仕方があるのだろうか? ある意味でこれは最低の論理ではないのだろうか。
他にも荒を探せば多々ある(二つ重ねられたマフラーとか)のだが、それらをいちいち指摘していったもしょうがない。要は前述したような大きな見逃したくないような荒があり、それによって作品に対する評価が低くなり、そして細かい荒が目立ってしまうというパターンである。それらを見逃せば、論理的な解決部分にいっては及第点を与えるべき点もあるかもしれないのだが、私的にはワースト作品とあいなった。そんなこんなでこの著者には、せめてもう少しうまくなってから本を書いてもらえないものかとつねづね思う。作家が本を完成させれば、編集者は没にするということはないのだろうか。本当にいろいろと思うことがある。
こういったことを言いながらもたぶん次作も読んでしまうと思うのだが・・・・・・