「屍 鬼」 感想
1998年09月 新潮社 単行本(上、下)
ここでの感想としてこの作品により感じ取れたことをいくつかに分けて書いてみたいと思う。
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純然たるホラー作品として
この作品では作中でいろいろな事柄を示唆しているような部分も多々感じられるのだが、基本的にはホラー作品であると断言してよかろう。本書においては、じわじわと迫り来る不安というものを存分に感じることができるようになっている。そしてその不安がいつしか危機感と移り変わり恐怖感がさらにあおられる。
そしてその次に来るものが本書の特徴といえるのではないかと思うのだが、危機感の次にはいつしかそれが虚無感、いわばあきらめの感情に変わりつつある。読んでいるうちにもうどうしようもないや、というような倦怠感に塗りつぶされていくように感じられてしまうのだ。このもうどうにもならないという状態における恐怖というものは、他のホラー小説にはないものではなかろうか。
しかし、物語はそれで終わらず最後には惨劇、惨状が一気にあふれ出る結末へと押し流されることとなる。読んでみると淡々と書かれてはいるものの、よくよく考えて読めばこれほど恐ろしい状況はないのではなかろうかと感じられる。映像化は絶対に無理であろう。
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閉鎖的な地域社会におけるヒエラルキーについて
読んでいて一番感心したのはこの点。ここでの外場村の設定では、寺が一番の権力を持っていて、その次に兼正(村長みたいなもの)、そして医院という順番になっている。これはもともとが寺とその檀家たる村人たちとの持ちつ持たれつの関係が存在し、そしてその間を仲介するのが兼正であるという役割を示している。これは寺が特権的にえらいというよりは村人たちが困ったときには寺が手助けし、その実務を担うのが兼正であり、そうして恩恵をうけた村人は自然と寺に感謝を込めて尊敬の気持ちを持つようになるという地域社会が成り立っていたということである。その一例として、もともと村には医者がいなかったのので寺と兼正の力によって医院を設立し医者を連れてきたということがそれにあたる。
昔から村に住んでいるものにとっては、その関係というのはあたりまえであり、自然と寺を敬うようになる。しかし、新しく村に住むようになったものはそうした関係というのがわからないわけである。そうするとただ単に寺や兼正がいばっているように感じとってしまい、そこで軋轢が生じていくというのである。
これは地域社会の1パターンにしか過ぎないのかもしれないがなるほどと思わせる。確かにその地域によって昔からあたりまえと思われる風習や習慣があったとしても、後からきたものはそのような事がわかるわけではない。それをこと細かく教えてもらえれば別だろうけれどもわざわざそのようなことを伝えるというには、その風習の始まりが古すぎるということもあるのかもしれない。これはどこの地域においても似たような事象が存在するのであろう。
(このパートは感想というよりも本書からの抜粋が多くなってしまった)
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生者と死者の世界について
本書では数多くの登場人物が出てくる。それら登場人物のすべては普通に村での生活を営む人々である。そして多くの村人達が登場する中でその生活ぶりが描かれているものの、それらは平凡であり、決して印象に残るものではない。普通に近所の住人同士で仲がよく、もしくは仲が悪く、家族としてうまくいっていたり、憎みあっていたりとさまざまな形で描かれている。だからこそこれは普通の人々の生活風景ともいえるのである。
そして村の平穏が崩れ去ったとき、その平穏であったときの人々の関係という物がある種、重要性を持っているように思えてくる。その村人たちの絆によって助けられるというわけではなく、むしろ逆の行為が行われるのである。それは人間関係の根底を壊し、人々の信頼というものをあざ笑うかのように全てが破壊されていく。
こういう角度から眺めてみると本書はパニック時における家族や人間関係の崩壊を描くホラー小説であるともとることができる。
そして生者の世界とは別に構築される死者の世界というものが本書では存在する。しかしまたその死者の世界というものがあまりにも人間臭く描かれている。それらがある行為を行うという以外は生者の世界となんら変わらない。しかも、死者の世界においてのほうが階層社会的な様相が強く、非常に不自由な生活を強いられているように感じられる。
死者の世界とはある意味死から逃れられたとはいえ、それを代償にして囚われの世界に拘束されることであるといわんばかりに。
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宗教的な面
この部分についてが一番私自身が読み取れなかった部分である。本書において主人公の一人の僧であり作家である静信が自分自身の感じることを文章にしている。これが本書の中で太字によって、そこそこ多く書かれている。その文章では、カインとアベルを持ち出し弟殺しについての感情が切々と書かれている。当初はこの弟たる存在が具体的なものとして描かれているのかと思ったのだが、読了してみるとそういうわけでもないようだ。なんとなく、殺された弟というのは静信自身を指しているように感じられ、そして加害者は社会というようにとらえることができる。もしくは、被害者も加害者も静信自身であるというようにもとらえられる。
本書においてはこの静信の存在が必要でありつつ、かつ不可解なものとなっている。静信の存在がなければ本書はもっと簡潔な内容と感じられたのではないだろうか。それがこの静信の存在により矛盾にも満ちたような内容が加味されているように感じられる。結局静信のとった行動とは感情的なものなのか、詭弁であるのか、自分自身に対する救済でしかないのか、私にとってはこの部分が一番不可解に感じられた。