<内容>
「織部の霊」
「砂糖合戦」
「胡桃の中の鳥」
「赤頭巾」
「空飛ぶ馬」
<感想>
この本が出版されたのが1989年で、私が文庫で買って読んだのが1994年。そして再読してこれを書いているのが2000年末。
この「空飛ぶ馬」が出てから、同じような趣旨の本がずいぶんとたくさん出たものだ。ミステリーといえば、殺人、盗難などの犯罪性が強いものがあたりまえである。しかしそれを覆すかのように、きわめて日常的なもののなかに“不思議”を見つけ、それがミステリーという形を見事に描いているという本書が登場したのである。それ以前にもこういう作風のものはあったかもしれないが、日常を語るにふさわしい美しい文体で書くことにより、しかも、女子大生の私小説としたことで、完全に作風が確立された。似たような作品が出たとしても、他の追従を許さない作調がここにはある。
少々、砂糖の量が多すぎるような甘たるい雰囲気といえないこともない。しかし日常を扱っているからといって、それがすべて甘い結末を終えるわけではなく、苦い現実や辛い事実がそこには存在する。このシビアな面も魅力のひとつとなっているのだろう。
<内容>
「朧夜の底」
「六月の花嫁」
「夜の蝉」
<感想>
久々に再読。感想は書いていなかったものの、この作品は何度か読んでいたような・・・・・・まぁ、内容はあまり覚えていなかったが。日本推理作家協会賞を受賞した作品であるが、それを受賞しただけでなくこのシリーズの価値をさらに高めた作品ではないかと、読んでみて改めて実感させられた。
読んでいくと、ミステリというよりも物語色の方が強いように思える。そう捉えられるくらい、登場人物たちの感情が見事に表現されている。文学的とまではいわないが、この辺は通常のミステリ作品では体験することのできない感覚を味わうことができる。
ミステリ的なものに関しては、“日常の謎”系などという言葉が使われているくらいであるので、ちょっとした謎を扱ったものとなっている。ただ、それらが決して添え物ではなく、一筋縄ではいかない内容になっているところが大したもの。
「朧夜の底」は、古本屋にて逆さにされた本の謎という一見単純そうなもの。それをよくそんなこと考え付くなと、こねくり回した推理を導き出しているところに感心させられる。あえて“悪意”を浮き彫りにしているところが印象的。
「六月の花嫁」は、遊びに行った別荘で、チェスの駒が隠されるという他愛もない事件。それをうまくとある登場人物の“心持ち”を踏まえたミステリとして作り上げているところが見事。感情というものを見事にミステリを用いて表現している。
「夜の蝉」は誤って届けられた封筒の謎。これも謎そのものだけではなく、登場人物らの心に巣くう感情を見事に表しだしたものとなっている。封筒に関する謎も、何気によく出来ているなと感心させられる。
ここに掲載されている3編の作品どれもが、物語としてだけでなく、またミステリとしてだけでなく、その二つがうまく結びつき合うことによって作品が完成されているといえよう。一見、たあいもない読みやすそうなミステリ作品という感じではあるのだが、何気に深みを感じてしまう作品集である。
<内容>
<私>が幼いころから知っていて、現在は高校生である、津田真理子と和泉理恵という仲の良い二人。その津田真理子が高校の校舎の屋上から落ちて死亡したというのである。その事件が原因で、文化祭は中止になったと。そして<私>は、近所で意気消沈する和泉理恵を見かけ、なぐさめる。そうしたなか、<私>の元に、その事件は事故ではなく、殺人であることを告発する文書が届けられ・・・・・・
<感想>
<私>と円紫シリーズの3作品目であり、シリーズ初の長編。これまた久々の再読。
読んでいて、前2作と変わらず面白いことは確か。ただ、ミステリとして期待するのであれば、このシリーズは短編のほうが良いのかなと。とはいえ、この作品については、文学的な感覚・感情を好んで読んでいる人も多いと思われるので、一概に悪いというような表現はそぐわないのであろう。
本書における“謎”については、日常の謎とは異なる死亡事件を扱っている。高校生が校舎の屋上から転落した事件。一見、事件性はないのだが、何故屋上に上っていたのかという不可解な点はある。また、亡くなった女子高生の親友が異常なまでに意気消沈しているのには、何か理由があるのか? というもの。
この謎を落語家である円紫が解くこととなるのだが、これはなかなかうまくまとめていると感心させられた。伏線もきっちり回収されており、ミステリとしての出来はなかなかのもの。また、ミステリとしての伏線のみならず、感情的な伏線もきちんと描かれているところがこのシリーズらしい。
<内容>
「覆面作家のクリスマス」
「眠る覆面作家」
「覆面作家は二人いる」
<感想>
“覆面作家シリーズ”が新装版が発売されたのを機に再読してみることに。ミステリとして堪能でき、かつ、手軽に読める作品になっている。
なんといってもキャラクター造形が良い。二重人格と言うか“超内弁慶”の逆というお嬢様作家。そのお嬢様が探偵役となる。語り手はそのお嬢様を担当することとなる編集者。しかもこの編集者が双子で、兄が警視庁の刑事というところがまた、ミステリのお約束みたいな設定で良いと思われる。
また、キャラクターのみならず、話の内容も面白い。ミステリのネタとしてはそんなに複雑なものを扱っているわけではないのだが、それぞれの事件を論理的に検証しているところに見応えを感じられる。「覆面作家のクリスマス」では、包装が開けられていなかったプレゼントが何故無くなっているか? 「眠る覆面作家」では、誘拐された妹を心配する姉の行動から読み取れるものとは? といったところにスポットを当てて、事件を解決に導いている。ただ残念であったのは3作目の「覆面作家は二人いる」では、そういった論理性のようなものがあまり感じられなかったところ。
アクションあり、推理あり、ほのぼのとした人間模様あり、という初期の北村作品を堪能できるシリーズ作品集。読んだことのない人はこの新装版が出た機会に是非とも。
<内容>
「三角の水」
「欄と韋駄天」
「冬のオペラ」
<感想>
北村氏の古い作品を再読。叔父の不動産会社で事務員として働く姫宮あゆみ。その不動産会社の上の階に“名探偵・巫弓彦”と名乗る者が引っ越してきて、興味津々の姫宮あゆみが彼と共に探偵活動に関わるという話。
日常系ミステリの延長線上にある作品集という感じであった。「三角の水」は軽めの企業スパイの話で、「蘭と韋駄天」は蘭泥棒のようなものが描かれる。どちらもそんなに大きな事件というわけではない。ゆえに日常系の謎といっても良いほどなのだが、何故かどちらもドロドロとした内容になっているところが微妙。特に「三角の水」のほうは、不要な形でわざわざドロドロとした話にしているようで、ちょっと違和感を覚えてしまう。
そんな感じで「冬のオペラ」もと思いきや、こちらでは殺人事件が描かれている。それも、部屋の扉の前には常時人がいて、窓からはザイルが垂れていて、外には被害者の服が落ちていてと、凝った様相で描かれた事件。それを巫弓彦が見事に解き明かしている。この作品もある種のドロドロとしたものを描いているのだが、ただこちらに関しては、ドロドロよりももの悲しさのほうが強い印象を与えることとなる。
と、そんな感じで、やけに「冬のオペラ」という作品の印象が強く、全体としてはややバランスを書いているように見えるのだが、それでも面白く読めたかなと。まぁ、前の2作品は「冬のオペラ」のための前振りだというふうにも捉えることができるかもしれない。
と、こんな作品集であるのだが、その後この巫弓彦のシリーズは出ていないように思える。調べてみると、単発で別に一編の短編があるのみのよう。なんとなく使い勝手が良さそうな探偵だと思われるだけに、これで終わってしまうのはもったいないような。著者としては、意外と扱いにくい探偵であったのかな?
<内容>
「恋愛小説」
「水に眠る」
「植物採集」
「くらげ」
「かとりせんこうはなび」
「矢が三つ」
「はるか」
「弟」
「ものがたり」
「かすかに痛い」
<感想>
主に恋愛を描いた短編集といったような内容のもの。オフィスを中心とした、働いている者たちの恋模様を描いたものが多かったような。
個人的には、こういったものを読みなれていないせいか、あまり内容にピントこなかった。特に最初の「恋愛小説」などは、心情的に理解できなかった。どちらかというと怖い話にしか思えないのだが・・・・・・それは、私自身のロマンス度が足りないせいなのだろうか?
いくつかちょっと毛色の異なる作品も含まれており、そういったものはむしろ楽しめた。「矢が三つ」は、2夫1妻制の世界が描かれており、ややとげとげしい内容になっているのだが、最後に子供が一言でうまく事を収めているところが見事と思えた。変わり種の人気者の書店員の様子がうかがえる「はるか」、いきなりグロテスクな話を突き付けられるような「弟」あたりも面白い。
<内容>
昭和40年代の初め。わたし一ノ瀬真理子は17歳、千葉の海近くの女子高二年。それは九月、大雨で運動会の後半が中止になった夕方、わたしは家の八畳間で一人、レコードをかけ目を閉じた・・・・・・
目覚めたのは桜木真理子42歳。夫と17歳の娘がいる高校の国語教師。わたしは一体どうなってしまったのか。独りぼっちだ・・・・・・でも、わたしは進む。心が体を歩ませる。顔をあげ、《わたし》を生きていく。
<内容>
「覆面作家のお茶の会」
「覆面作家と溶ける男」
「覆面作家の愛の歌」
<感想>
覆面作家シリーズ第2弾。新装版にて再読。今作でもお嬢様探偵が様々な事件で活躍する。このお嬢様も作家になったことにより、ずいぶんと社交的になったのではないかと感じられる。今作では特に、外へ出かけてゆく機会が1作目よりも多くなったような感じがする。
最初の「覆面作家のお茶の会」では、出家したケーキ屋の主人の心持ちにスポットが当てられた内容。“殺人事件”ならぬ“活人事件”と言い切ったお嬢様の推理とその秘められた背景がすばらしい。
「覆面作家と溶ける男」は、とある誘拐事件の真相がお嬢様の活躍によって浮き彫りにされるという内容。その真相については・・・・・・わからなくもないが、どう考えても犯人の行動が余計すぎるというような。
「覆面作家の愛の歌」は、とある劇団で起こった殺人事件。容疑者はいるものの、アリバイがあり、そのアリバイを如何にして解き明かすかというもの。固定電話を取り扱ったトリックゆえに、昔懐かしという感じの内容。この作品は、ほかの2作に比べて長めとなっているのだが、その中身からするとやや冗長であったような。これは単にお嬢様の活躍を描くのみではなく、お嬢様対サイコパスを描き、お嬢様の成長を描くというような意味もあったのかもしれない。
<内容>
「覆面作家と謎の写真」
「覆面作家、目白を呼ぶ」
「覆面作家の夢の家」
<感想>
覆面作家シリーズ、第3弾で完結編となる作品。
「覆面作家と謎の写真」では、写真にそこにはいないはずの人物が映っているという謎を解くミステリ。特に事件性はないのだが、日常の謎系のアリバイトリックという感じであり、動機がいかにもそれらしいものとなっている。
「覆面作家、目白を呼ぶ」は、殺人事件を扱ったもの。突如、蛇行して崖から転落した車の謎に迫る。トリックについても、犯人についても、伏線が目立った形で張られているので、わかりやすいミステリといえよう。ただ、現実世界でも使えそうなトリックゆえに、恐ろしさも感じられる。
「覆面作家の夢の家」は、ダイイングメッセージもの・・・・・・ではあるのだが、実際の殺人事件ではなく、ドールハウスを使ってのメッセージ。こちらに関しては、マニアックすぎる暗号になってしまったなという感じ。日常的でありながらも、マニアックであるがゆえに日常から逸脱してしまった内容とも感じられる。
シリーズ最終作であるがゆえに、昔読んだ記憶では、最後にシリーズとしての盛り上がりがあったのような気がしていたのだが、思っていたよりも二人の関係が盛り上がらず、静かな終幕を迎えていた。まぁ、これくらい控えめな終わり方こそ、この主人公にはふさわしいのかもしれない。
<内容>
真希は29歳の版画家。夏の午後、ダンプと衝突する。気がつくと、自宅の座椅子でまどろみから目覚める自分がいた。3時15分。いつも通りの家、いつも通りの外。が、この世界には真希一人のほか誰もいなかった。そしてどんな一日を過ごしても、定刻がくると一日前の座椅子に戻ってしまう。いつかは帰れるのだろうか? それともこのまま!? だが、150日を過ぎた午後、突然、電話が鳴った。
<感想>
あくまでも空想上の世界の出来事であろうが、妙な説得力がある。世界観がある程度しっかりできていて、それにたいする理由付けも納得のいくものになっている。これで殺人でも起きれば西澤保彦の世界になってしまうのだろうが。
前作、スキップと比較するとこちらのほうが好きである。出だしからの2人称には抵抗があったものの、《くるりん》に巻き込まれてからの展開からは楽に読み進めることができた。今作は起きた現象の原因について解釈しようとしている部分がミステリーとして読むことができた。そこが今作がおもしろく感じられたところかもしれない。やはり、北村氏の作品の魅力としては人物造形や語り合いのやさしさ、描写の妙といったところがあるのだろうが、謎という部分も大切な一つであると思っている。
<内容>
“私”は晴れてアルバイト先の出版社に就職することができ、編集者の一員として社会人生活のスタートを切ることとなった。いっぱしの編集者となり、与えられた仕事をこなしていくものの、なにか謎めいた事が起きたとき、それを落語家の円紫師匠の元へ持っていくということは相変わらず変っていないのだが。
「山眠る」 (オール讀物:1995年4月号)
「走り来るもの」 (オール讀物:1996年7月号)
「朝 霧」 (オール讀物:1997年11月号)
<感想>
このシリーズ自体は確実に進歩しているのだと思う。たぶんしているのだろう。ただ、どうしても歯切れが悪くなってしまうのは、その進歩が私自身が望む方向へは行ってくれないからである。もともと「空飛ぶ馬」という作品集から読み始めたシリーズであるのだが、前作「六の宮の姫君」あたりからミステリー色ではなく、文学色がより濃いものになってしまったという気がする。その文学色という面から見れば、本書は十分に濃い内容であると思うのだが、ミステリーという面から見るとかなり薄くなってしまったのではないだろうか。どうも、その文学色というものに私は付いてゆけず、本書の物語の謎となっている部分でさえ理解しづらくなってしまった。残念ながら、私自身が本書の主人公が進み行く社会人生活への道から取り残されてしまった感じである。主人公とは違う面持ちで、過ぎ行く日々を感じてしまう・・・・・・
<内容>
自宅に殺人犯が篭城、妻が人質に!? 警察が取り巻き、ワイドショーのカメラが中継するなか、末永純一はただ一人、犯人との取引に挑む。先手を打って城内の殺人者を詰め、妻・友貴子を無傷で救わなければ・・・・・・盤上の敵との争いは緊迫のうちに進み、そして取引は震驚の終盤を迎える。
<感想>
著者の今までの作風のものとは異なった作品。その点をノベルス版では冒頭で明記している。
殺人犯が自宅に篭城したと分かるやいなや、テレビディレクターを生業としている主人公は奇妙とも思われるような行動を取り出す。主人公の行動と、その妻の回想が繰り返されるなかで、物語はちぐはぐなイメージを読者に持たせつつ展開していく。しかしながら、最後には主人公が取った行動の意味の全てが読者にハッキリと明かされるのである。
内容に関しては、黒の陣営側のことも書き込むべきだったのではないかとか、回想部分が多すぎるのではないかとか、注文をつけたくなるような部分も多々ある。しかしその反面、この作品はこれでいいのだ!と思わせるような有無を言わせないような力を感じもする。この作品の出来は十分評価できるのだが、好きか嫌いかと問われると、どちらともうまく答えられない奇妙な余韻を残させる。
<内容>
昭和20年、戦時中疎開先にて出会った二人は唐突な別れを強いられることに! しかし二人は時を経て、再び出会う運命へと導かれて行く。
<感想>
これといった特長がなく、普通にいい話という感じの本である。まぁ、特長がないなんていう言い方は失礼かもしれない。本書も、「スキップ」、「リターン」に続き、“時のいたずら”とでもいうべき出来事が起こる。ある種、それだけ取り出せば超常現象なのかもしれないが、不思議と物語の中にスッと入っていくようであり、違和感などは感じられない。よって、SF的設定であるにもかかわらず、自然な普通の物語として構築されているようにしか感じられないのである。このように感じされられてしまうことこそが北村氏のうまさであるというべきところであろう。
話としては戦時中の話なども含められているので、人によって好き嫌いがあるかもしれない。ただ、この時を超えた巡りあいの物語は読んで損するものでないことだけは確かである。
<内容>
士族出身の上流家庭・花村家にやってきた若い女性運転手。令嬢の<わたし>は『虚栄の市』のヒロインにちなんで、彼女をひそかに<ベッキーさん>と呼ぶ。そして<ベッキーさん>が来てから<わたし>はさまざまなことに対して事件をみとるようになり・・・・・・
<感想>
昭和初期のレトロな色彩が北村氏が描く雰囲気と非常にマッチしている。それらの背景とか書き方についてはいまさらながら何の問題もない。しかし、ここにミステリを融合させるというのはまた至難の業ではないだろうかと思わせたのだが・・・・・・
「虚栄の市」は登場人物紹介といったところ。新聞に書かれた事件を考えていくというものではあるのだが、ミステリへの持っていき方がなんとなく不自然にも感じられる。
「銀座八丁」は事件というよりは、暗号遊びを用いたもの。こういったもののほうが時代の雰囲気や背景にマッチしているような気がする。こんな気楽な作品のほうがこの作風には合っているのではないだろうか。
「街の灯」では、最初は展開が強引ではないかと感じられた。しかし結末に至って、全体を覆うその貴族的な考えのもとに進められた真相はとても納得いくものであった。なかなかの佳作である。
「虚栄の市」はミステリとうまく結びついていないような気がしたのだが、その他の2編は十分に成功していると感じられる。しかしながら、個人的にはこのシリーズはあまり好きになれない。なぜかというと、“ベッキーさん”の位置付けが非常にあいまいに感じられるのだ。語り手である主人公が完全に謎を解くというわけでもなければ、“ベッキーさん”が快刀乱麻で謎を解く、というわけでもない。そのあいまいさ加減があまり好きになれない。主人公が探偵役でも、もちろんかまわないのだが、それにしては主人公の性格が普通すぎる。せっかく異なるシリーズを描いたのだから、少し主人公の性格をいじってもよかったのではないだろうか。
北村氏が描く、ちょっと性格の悪い主人公というのも見てみたい気がする。
<内容>
作家にして探偵のエラリイ・クイーンは出版社の誘いによって来日する事に。そのとき、日本では幼児殺害事件が起きていた。そしてその事件はやがて連続殺人事件へと発展する事に。クイーンはこの事件に興味を持ち、解決に乗り出そうとする。果たして、一連の事件の謎とはいったい? 二十枚の五十円玉が示唆するものとは??
<感想>
北村薫氏の作品でクイーンのパスティーシュと聞き、タイトルが「ニッポン硬貨の謎」とくれば、これはもう期待せずにはいられなくなってしまう。そう思って読んでみたのだが、私にとってはあまり面白い内容であると言えるものではなかった。
本書に対して不満を挙げればきりがないのだが、一つはストーリーにある。本書はもちろんのことながら、ミステリーたる内容となっているのだが、そのミステリー部分があまりにも希薄に感じられた。ページ数が薄い本であるにも関わらず、さらにミステリーとして進められている部分が少ないのだから、これはもはや短編というような分量でしかない。また、その内容に今更ながら「五十円玉二十枚の謎」という既出の話を持ってきてしまう事も理解しがたかった。
また、本の作りを見てもどうかと思える。本書は300ページ強の厚さであるのだが、字が大きく、さらには注釈に多くの分量がとられている。せめて、注釈の文字は小さくするとかいった手法がとれなかったものかと強く感じられた。
と、そういった事で不満ばかりが感じられたものの、本書の中では一つの大きな仕掛けなりが行われていたようであるのだ。その辺は文中でも注釈にその謎なり解なりが含まれているといったことを示唆している。過剰なまでの注釈の分量に、確かにここになにかがあるのだろうなとは思ったのだが、正直なところ私には本書の仕掛けというものが読み取れなかった。
というわけで、読了後にいくつかのサイトを回ってみて、「ニッポン硬貨の謎」の書評などを拝見させてもらった。その中でいくつか参考になるところがあったのだが、結論からすれば私にとっては“わかりにくい”としかいいようがない。
本書はどちらかといえば、シャーロキアンならぬクイーンの研究家の人が読むのにふさわしい本という気がした。一応私自身もクイーンの著書はそこそこ読んではいるのだが、ただ単に流し読みするだけという読み方をしているものにとっては、着いて行きづらい世界であった。
そんなわけで、一概に“おもしろくない本”と言ってしまうことのできないのであるが、ちょっと敷居が高すぎるかなという気がする。また、できれば著者自身なりの解説を付けてもらいたかったところである(文庫化されれば誰かが解説してくれるのであろうが)。
<内容>
「溶けていく」
「紙魚家崩壊」
「死と密室」
「白い朝」
「サイコロ、コロコロ」
「おにぎり、ぎりぎり」
「蝶」
「俺の席」
「新釈おとぎばなし」
<感想>
本書は今まで北村氏が書き上げた短編をまとめたもの。特にこれといった統一性はないようである。
どのような短編集になっているかと思いながら最初の作品「溶けていく」を読んだのだが、最初は普通の話かと思いきや・・・・・・ホラー作品となっていた。新社会人となった女性がストレスから壊れていく様子が描かれている。その様相を“壊れていく”ではなく“溶けていく”と例えるところが北村氏らしいといえよう。
「紙魚家崩壊」と「死と密室」は同じ登場人物によるもの。いちおうシリーズ探偵ものと言ってもよいのであろうか。「紙魚家」は法月氏の作品に似たようなのがあったなと。ただし、この作品ではトリックよりも動機に重点を置いているようである。
この作品に出てくる助手の設定がスタージョンの「ビアンカの手」を思わせるような書き方がなされている。
あとの作品はちょっとした良い話であったり、ショートショートのような作品が並んでいる。それらの中では特に「俺の席」がうまいなと感じられた。
「新釈おとぎばなし」は序盤はエッセイのように始まって、後半から「かちかちやま」の新釈が語られていく。新釈といっても、ある意味バカミス(バカおとぎばなし?)といったような様相であったが。
<内容>
十代のころから仲良くしていた千波、牧子、美々の3人。初めて会ったときから、すでに20年以上が経過し、牧子と美々には子供ができ、千波はニュースキャスターの仕事をこなしながら独身でいた。そうして、立場が違えど、近隣に住む彼女たちは今でも暇があれば、互いを訪ね交流を深めていたのだが・・・・・・
<感想>
こういう作品を書くから女性作家と間違われるのだろうなと(あくまでもほめ言葉です)、思わずにはいられない。間違われたのはデビュー当時だけで、今更北村氏の素性を知らない人はいないであろう。とはいえ、若い読者が何も知らずに初めてこの作品を手に取れば、女性が書いた作品であると思ってしまうのではないだろうか。
本書はミステリ作品ではなく、3人の女性を中心として描いた物語である。非ミステリ作品には興味ない私でも、独特な優しい語り口で綴られる、ごく普通とも言える日常の物語にあっという間に惹き込まれてしまった。
この物語を読んでいて感心させられるのは、全編において自然な語り口で綴られていること。話の中には、かなり劇的な出来事も含められているのだが、そうしたことも必要以上に大げさに書くことがなく、良い意味で淡々と描かれているのである。必要以上に悲しさとか喜びを大げさに表現しないことにより、大きな深みを感じさせるものとなっている。
個人的には北村氏にはミステリ作品をもっと書いてもらいたいと思っているのだが、こういう作品も十分ありだなと思わずにはいられない。老若男女問わず、多くの人に読んでもらいたい作品。
<内容>
「幻の橋」
「想夫恋」
「玻璃の天」
<感想>
北村氏の代表作といえば“私と円紫”シリーズという日常の謎を描いた文学系の作品がある。このシリーズが書き続けられていない今、それに継ぐものとして、この“ベッキーさん”のシリーズがあるのだといえよう。
ただ、この“ベッキーさん”のほうは“私と円紫”に比べて、敷居が高く感じられるのである。“私と円紫”のほうは背景が現代ということもあり、取っ付きやすく感じられる作風であったが、“ベッキーさん”のほうは昭和初期という時代背景のせいなのか、何故か取っ付きにくいものがある。
さらには、このシリーズはミステリというよりは、格調高い文学系の“お遊び”がなされているという作品構成のように感じられ、どうも純粋にミステリ作品として楽しむことができないのである。
特に今回の作品集の中の目玉的作品でもある「玻璃の天」についてであるが、本来ならばこれは建築的造形が説明される事によって成り立つミステリ作品であると思われる。しかし、実際には建築的造形が説明されるにもかかわらず、何故か“文学的造形”によって表現される建物という風にしかとれないのである。そうしたところが、このシリーズ全般に対する敷居の高さとなっているように思われて、どうにも私にはなじめないのである。
とはいうものの、あきらかにその私自身がなじめない部分が北村作品たる独特の部分であると思われるので、一概にそれを否定するわけにもいかないのであろう。要するに、こういった作風が合うという人のためのミステリということになるのであろうか。
<内容>
「百物語」
「万華鏡」
「雁の便り」
「包 丁」
「真夜中のダッフルコート」
「昔 町」
「恐怖映画」
「洒落小町」
「凱 旋」
「眼」
「秋」
「手を冷やす」
「かるかや」
「雪が降って来ました」
「百合子姫・怪奇毒吐き女」
「ふっくらと」
「大きなチョコレート」
「石段・大きな木の下で」
「アモンチラードの指輪」
「小正月」
「1950年のバックトス」
「林檎の香」
「ほたてステーキと鰻」
<感想>
北村氏によるノン・シリーズ短編集。ノン・シリーズというよりも、今まで様々な媒体で書かれた短めの作品を集めた作品集といったところ。
序盤は怪奇系の作品が続いていたので、そうしたものが多くなるのかと思ったのだがそういうわけでもなく、日常を描いた作品が多かったように思えた。
日常を描くというのは一見簡単そうに思えるのだが、よく考えてみると難しいことだと考えられる。自身が経験する日常というのはありきたりで一辺倒でしかないはず。それを自分以外の家族の視点から想像し、日常を描くというはなかなかできるものではない。むしろ非日常の方がイメージがわきやすいのではないだろうか。
印象に残ったのは「百合子姫・怪奇毒吐き女」。タイトルからしてやや毒々しく感じられるものの、一切そんなことはなく、一少年の初恋が描かれた作品。ひとつの物語を別の視点から描いたかのような内容。視点によって同じ人物の印象が大きく異なるところが面白い。
「林檎の香」はひょっとすると長編「ひとがた流し」の元となった作品であろうか。また、「ほたてステーキと鰻」は「ひとがた流し」の後日譚を描いた内容。なんとなく懐かしさを感じてしまった(読んだのはそんなに昔ではないのだが)。
そして一番印象に残ったのはなんといっても「1950年のバックトス」。これは長編で描いてもらいたかった作品。孫が少年野球で活躍する姿を見て、おばあさんが自分の過去を思い出す話。そして、数十年ぶりの再会が印象的なものとなっている。
<内容>
中学生になったアリス。彼女は小学生時代は少年野球チームのエースを務めていたが、中学生になって、女の子であるアリスを受け入れてくれる野球チームはなかった。そんなとき、彼女はまるで“不思議の国のアリス”のように、鏡の国へと迷い込むはめに。そこは、左右が逆という意外は彼女が住んでいたところとほとんど変わりなかった。そしてもうひとつ、女子が参加してもよい野球チームがあるということも・・・・・・
<感想>
北村氏がミステリーランドでどのような作品を書くのかと期待していたのだが、ここまで真っ向から少年少女向けの小説を用意してくるとは・・・・・・まぁ、ようするに全くミステリの要素はないという作品になっている。
話そのものは充分に楽しめる内容である。大人でも野球好き、スポーツ好きの人は楽しめるだろうとは思うものの、やはり子供向けという印象が強い作品である。まぁ、こんなことを言ってしまうと怒られるかもしれないが、立ち読みでも充分いける作品かなと。
とりあえず、ミステリーランドというレーベル自体が続いていたという事は喜べるところであろう。今後もよい作品を期待して待っていたい。
<内容>
「不在の父」
「獅子と地下鉄」
「鷺と雪」
<感想>
英子とベッキーさんのシリーズ第三作目となる本書であるが、今までの作品よりも取っ付きやすく、読みやすかったように思えた。事実、丸一日であっという間に読み終えることができた。ただし、その分内容があっさり目というようにも感じられた。
このシリーズであるが、ここまで読んでみて思うのは、別にミステリ作品という位置づけにこだわらなくてもよかったのではないかということ。一連の作品の趣旨からすれば、ミステリとしての趣向を楽しむというよりは、良家の令嬢の目から見た大正という時代の雰囲気を感じ取るということこそが主ではないだろうか。特にこの作品を最後まで読むと、強くそのように感じられるのである。
どうやらこのシリーズはこの作品で完結とのこと。しかし、これで完結するというのは、はなはだ不満である。というのも、この一連の作品は英子とベッキーさんとの関係を描いてきたものと思って読み続けていた。それがラストの展開ではベッキーさんが、やや置き去りにされているというように感じられる。せめて、全てを補完するもう一編を付けてもらいたかったというところ。
ただ、ラストがあまりにも劇的なため、それ以上付け加えてしまったら蛇足というのも一理あるだろう。このラストのような出来事が実際に起これば、まさに神がかっているとしか言いようがない。
<内容>
「マスカット・グリーン」
「腹中の恐怖」
「微塵隠れのあっこちゃん」
「三つ、惚れられ」
「よいしょ、よいしょ」
「元気でいてよ、R2−D2。」
「さりさりさり」
「ざくろ」
<感想>
北村氏による、ちょっと嫌な話を集めた作品集。さすが北村氏といいたくなるほど、絶妙な心持の嫌な話にあふれている(褒め言葉になっている?)。
妊婦の人は読まないで下さいと注意書きがあるほどの嫌な内容の「腹中の恐怖」が最高。この作品のみで他の内容が薄れてしまうほどのもの。十分怪談話として読めるくらいの内容。
他の作品についても、やたらと女心がわかっているなと感じてしまうようなものばかり。これでは確かに女性作家と誤解されてしまうのも無理はない。ただ、そういった内容にも関わらず、単に嫌な感じだけではない“丸さ”みたいなものを感じられるところは、男性的な部分なのであろうか。気になる人は、その絶妙な感触を読み試していただければと思う。北村氏らしくなさそうで、やっぱり北村氏らしい作品集。
<内容>
文芸雑誌社の副編集長である“わたし”は、同僚の誘いにより山登りの楽しさを知る。それ以来、仕事の合間を縫って女ひとりで身軽に各地の山へと旅に出かけてゆく。
「九月の五日間」 (槍ヶ岳)
「二月の三日間」 (裏磐梯雪山ツアー)
「十月の五日間」 (常念岳)
「五月の三日間」 (天狗岳方面)
「八月の六日間」 (槍ヶ岳別コース)
<感想>
女性編集者が同僚により山の楽しさを教えられ、長い休みをとることができるようになると現実のしがらみから逃れるように山登りをしていくという話。ひとつの長編としてではなく、時間をおきつつ、いくつかの山を登るという連絡短編形式で描かれている。
これを読むと“軽登山”に興味を惹かれるという人も結構いるのではないかと思われる。ただ、驚くべきところは著者の北村氏は一切山に登ることなくこの作品を仕上げたとのこと。絶対、経験談を元に描いた作品だと思っていた。ゆえに、山登りガイドという位置づけの作品ではないようなので“注意されたし!”とのこと。
山登りというものが単なるストレス解消ということだけ考えるのはリスクが高いかもしれないが、どこかそそられる部分があるのは事実。仕事などは誰しもが大変なことだと思えるが、それを如何にしてリフレッシュするかが一番大きなポイントではないだろうか。仕事のみならず、人生のリフレッシュもかけての登山という事で、ある意味その登山を疑似体験できる小説とも言えるかもしれない。
<内容>
「夢の風車」
「幻の追伸」
「鏡の世界」
「闇の吉原」
「冬の走者」
「謎の献本」
「茶の痕跡」
「数の魔術」
<感想>
久々の北村氏による“日常の謎”系ミステリということで期待したのだが、なんと“出版界の日常の謎”であった・・・・・・
それでも最初の2作品くらいは面白かった。新人賞受賞作候補が昨年応募したものであることが判明する「夢の風車」。原稿用紙に書かれた未発表書簡の謎に迫る「幻の追伸」。この辺りは非常に面白く読むことができた。
ただ、徐々に出版ネタとしての色合いが濃くなってきて、興味が持てないような内容のものがチラホラと。“出版界の日常の謎”と言いつつも、出版界であっても日常的ではなさそうな感じが徐々にし始める。段々と、出版界のマニアックな出来事となりつつあったかなと。