<内容>
「嘘でもいいから誘拐事件」
「嘘でもいいから温泉ツアー」
<感想>
テレビ番組スタッフのタック(隈能美堂巧)、ターボ(鈴木貴子)、ディレクターの軽石三太郎らが登場するユーモア・ミステリ第2弾・・・・・・といっても、その後第3弾は出てはいないのだけど。
今回は、中編が2冊。レポーターを担当するタレントの女の子がゴンドラの中から消え失せ、身代金を要求する手紙が残され、さらには鬼の幽霊が出るというもの(「嘘でもいいから誘拐事件」)。もうひとつは、テレビ番組の撮影に温泉を訪れた一同が、何故か白い着物を着た人物に襲われる!(「嘘でもいいから温泉ツアー」)という内容。
著者自身が手抜きで書いているシリーズではないかと言われて困惑しているようなのだが、このシリーズ作品は実際に読んでみると非常に気になるところがある。それは、コメディタッチのユーモアミステリにも関わらず、あまり読みやすくないのである。むしろ島田氏が書く、普通の社会派小説っぽいミステリ作品のほうが読みやすいと思ってしまう。これは、後に書くことになる“犬坊里美”が主人公の作品もそうなのだが、実は島田氏、ユーモア調の作品を書くのが苦手なのかなと感じてしまう。人には、向き不向きがあるということなのだろうか。
本書は、それぞれの作品が短いので、ちょっとした一発ネタを盛り込んでのミステリというようなもの。ただ、“誘拐事件”のほうは、それなりにミステリしているという感じであるのだが、“温泉ツアー”のほうは、ミステリ的にも弱すぎるような。あくまでも、作中のちょっとしたひとつのエピソードに過ぎないという内容くらいにしか思えなかった。本当であれば、この2つのネタを盛り合わせて、ひとつの作品をつくるくらいで良かったとも思えるのだが。
<内容>
寝台列車の閉ざされた部屋のなかで女性の死体が発見された。死亡していたのは東京の不動産会社の女社長。元々心臓が悪く、病死と判断されたのだが、捜査一課の吉敷竹史は、社長秘書を務める若い男に対して不穏なものを感じていた。ひょっとしたら女社長は殺されたのではないか・・・・・・だとしたら、どのような方法で殺害されたというのか? アリバイを崩すべく吉敷が捜査を行っていくと、24年前に起きた未解決に事件に遭遇し・・・・・・
<感想>
“倒叙”作品というわけではないのだが、プロローグで男が女に対して犯行宣言をし、実際にその女が被害者となって発見されることとなる。寝台列車の閉ざされた部屋のなかで発見された故に事故死と思われたのだが、吉敷は直感で事件ではないかと判断する。そして、プロローグで出てきた“男”の存在に胡散臭いものを感じ、序盤から彼を犯人と考えての捜査が始まってゆく。
アリバイ崩しの内容ゆえに地味な作品・・・・・・かと思いきや、中盤になると意外な展開が待ち受ける。それは過去に起きた未解決事件に吉敷は直面することとなり、今回の事件の関連と、両者の事件の真相を解き明かさねばならなくなるのである。
ストーリー仕立てが非常にうまく出来ていると感心させられた。過去のオリンピックの開催と新幹線の開業をストーリーに結び付け、それを現代にもうまく生かしている。さらには、ちっとした仕掛けが色々とちりばめられており、後半は読んでいて決して飽きることのない構成に仕上げられている。島田氏の数ある作品の中で、スポットが当たることにない作品のひとつと思われるが、これは隠れざる秀作といったところではなかろうか。
<内容>
吉敷竹史が所属する警視庁捜査一課にもたらされた事件は、観光名所のしめ縄にぶら下がった状態で発見されたという死体の件。しかも、被害者の遺留品から、吉敷がたまたま知り合いとなった男の名刺が発見され、吉敷は事件に興味を抱く。
一方、東京で医者の妻として暮らす輝子は、京都に住む旧友の陽子に呼び出されたことにより、恐ろしい事件に遭遇することとなり・・・・・・
<感想>
全体的に微妙な内容であったな。こういう作品も含まれているから、吉敷竹史シリーズについては、なんとなくいまいちな印象が強くなってしまうような気が・・・・・・
冒頭こそ、しめ縄にぶら下げられた死体という島田氏作品らしい雰囲気で始まるものの、それ以後は二人の女の学生時代から現在までにおける関係の話が延々と語られてゆく。しかも読んでいて楽しいものではないので、いささかうんざりしてしまう。そして、中盤からようやく物語が動き出すものの、ミステリとしてはあまりにもわかりやす過ぎる展開が進められてゆくこととなる。
色々な点でいまいちであったなとしかいいようがない。しかも肝心のタイトルにある“幽体離脱”という部分が不発であった。登場人物らによる“厭”な部分が強すぎて、しかも後味も悪い作品。
<内容>
「インドネシアの恋唄」
「見えない女」
「一人で食事をする女」
<感想>
未読であった一冊。文庫版では「見えない女」。その後、南雲堂から発売された単行本では「インドネシアの恋唄」と改題されて刊行される。どちらも掲載されている短編のタイトルである。ここに載っている3つの話は、登場人物は異なるのだが、どれも海外においての美女との出会いが共通項となっている。
「インドネシアの恋唄」は、ひょんなことからインドネシアへと旅することになった青年がインドネシアの娼婦と出会い、恋をするという物語。その後、何故か二人は理解不能な事件に巻き込まれることとなる。ここに載っている作品の中では一番ミステリっぽい内容。導入が、「赤毛連盟」を思わせるようなものになっているのだが、その目的が何かというのが最後の最後までわからない。青年の青臭い恋模様がなかなかのアクセントとなっており、さらにはインドネシアの風土が物語に厚みを与えている。
「見えない女」は、フランスへと映画作成を目的に仕事をする男が出会った女との話。“見えない女”という理由に迫る内容であるが、これがなかなか意外で面白かった。本作ではフランスが舞台となっているが、ハリウッド版でも同じような内容のものができそう。
「一人で食事をする女」は、ドイツへと城を巡る旅に出た男が奇妙なふるまいをする美女と出会い、関わり合いになっていく話。美女を巡る話もさることながら、ドイツの城に関する薀蓄に楽しむことができる作品。美女の秘密に関しては近代的な内容となっており(あくまでも書かれた当時の年代で)、過去と近代と両方にわたるドイツというものを垣間見ることができる。
全体的に事件性のあるミステリとしては、「インドネシアの恋唄」くらいしか見どころがなかったように思えるが、物語としては面白かったかなと。手軽に読めるトラベル・ノベルといったところか。ただ、文庫版はもう絶版になっていて入手しづらいことであろう。
<内容>
浅草でハーモニカを吹く、無害と思われた浮浪者が消費税を請求されたことに腹を立て、店の主婦をナイフで刺し殺すという事件が起きた。取り調べをすることとなった警視庁捜査一課の吉敷であったが、容疑者は何も話さず、黙秘を貫く。浮浪者の老人に興味を覚えた吉敷は、容疑者の身元について調べ始める。すると、老人の凄惨ともいえる過去を知り、さらには過去に起きた不可思議な未解決事件について知ることとなる。その事件とは、列車内から突如自殺したピエロが消え、さらには列車が原因不明の脱線を起こすという大きなものであり・・・・・・
<感想>
久々の再読。それでも読むのはもう三度目くらいになるだろうか。感想を今まで書いていなかったので、ようやくここに書き記すことに。
島田氏の未読作品や、感想を書いていなかった作品を以前から読み続けているのだが、そうしたなかでこの作品が島田作品において大きな転機を迎えた作品ではないかと感じられる。以前から吉敷竹史が出てくるシリーズは、社会派ミステリの様相が強いと感じていたのだが、本書はその最たるもの。
この作品のなかではさまざまな社会的問題が取り上げられている。冤罪問題を始め、色々なものが取り上げられて、それらはまるで昭和の闇を暴き出すようなものでもある。どうもこのあたりから島田氏はただ単にミステリを書くということだけでなく、多くの人が読むと思われるミステリ誌上において、そうした問題を取り上げてゆくべきだと考え始めてきたようである。
本書は、単に社会派問題を取り上げたというだけでなく、ミステリ作品としてもすぐれたものになっているのが大きな特徴であろう。衆人環視の状態から一瞬にして消え去ったピエロの自殺死体、列車を襲ったさまざまな不可解な現象、さらには大規模な列車事故。本書はそうした謎に真っ向から取り組んでいるミステリ作品となっているのである。
始まりに生じた消費税が原因とみられた殺人事件から、容疑者の背景より浮かび上がることになった過去の大事件、そして容疑者がたどってきた凄惨なる過去、それらが社会的問題を提起しつつ語られてゆき、大きなひとつの物語になっているのである。これを読み終えると、壮大ともいえる人生を巡る物語と、そこで起きた数々の奇蹟・奇術そしてその代償にただただ圧倒されるばかりであった。
<内容>
吉敷竹史刑事は、プライベートで訪れた画廊で“羽衣伝説”と題された彫金を目にした。一目見て、吉敷は分かれた妻が作ったものではないかと気づいた。別れた妻、通子は以前事件に巻き込まれたときに再会を果たしたのだが、その後行き先を告げずに行方知れずとなっていた。その彫金からは通子の行方はわからなかったものの、吉敷がたまたま捜査で訪れた土地で、通子の手掛りを見つけ・・・・・・
<感想>
島田氏の本で、まだ読んでいなかったうちの1冊。これを読んで感じるのは、吉敷シリーズが、御手洗シリーズ比べて人気がないというか、認知度が低いのは、このような作品が間にはさまれているからではということ。
本書は、ミステリというよりは、吉敷と別れた妻・通子との物語になっている。「北の夕鶴2/3の殺人」で再開を果たしたはずの二人であったが、その後登場することのなかった通子との関係がどのようになったのかが、ここで語られている。
話の流れとしては、吉敷が通子の痕跡を見つける。吉敷がホステス殺し事件の真相を巡って、京都へ出張。そこでホステス殺しについては一件落着し、一息つくことに。すると偶然にも通子の痕跡を追うことができ、再会を果たす。そして、通子から過去の話を聴き、吉敷がその謎に迫る。
物語の1/3くらいのところで、ようやく事件が起きるのだが、そのホステス殺しについては、あっさりと解決を迎えてしまう。後半には通子と吉敷が再開し、通子にとって過去のわだかまりとなっている事件の話を聴き、吉敷はそれにひとつの解釈を語りだす。この過去の事件もあっさりとしたものであり、早々に解決を果たしてしまう。
結局のところ、なんとなく事件を挟んではいるものの、それらは決してメインではなくて、あくまでも吉敷と通子の物語となっている。「北の夕鶴2/3の殺人」と本書を通して、通子という人物がどのような者なのかということが語られているのだが、個人的にはさして感銘を抱くような事柄はなにもなかった。夫婦間のすれ違いについても、基本として刑事の仕事が忙しいというくらいで、他に語るようなこともない。どうにも興味のわかない話を聴かされたという感触である。
<内容>
「山高帽のイカロス」
「ある騎士の物語」
「舞踏病」
「近況報告」
<感想>
久々の再読。それぞれの作品をもっとよく憶えているかと思っていたが、内容を忘れていた作品のほうが多かった。
「山高帽のイカロス」は、島田氏らしい作品。電線に男がそらを飛ぶような格好でひっかかったまま死んでいたという不可解な謎に御手洗潔が挑戦する。この作品に関しては細かいところをすっかりと忘れていたのだが、それもそのはず、不可解な状況となってゆくそのディテールが意外と複雑であった。細部をよく考えられているとはいえ、偶然性にも助けられているという感じ。とはいえ、不可解な状況を紐解いていくという魅力が損なわれることはないので、楽しめる逸品であることは間違いない。
「ある騎士の物語」は、ある種のアリバイトリックといってよいのかもしれない。この作品集のなかで一番記憶に残っていた作品。というか、記憶に残りやすいトリックといってもよいであろう。改めて読んでみると、実際にはその工程において、絶対目撃されてしまうだろうなぁと思わずにはいられなかった。
「舞踏病」は、奇妙な踊りを踊る男がいるという相談が御手洗に持ちかけられたことから徐々に裏に潜む犯罪の全貌が明らかになってゆく。内容としては、ホームズの「赤毛連盟」系の内容だなと容易に気付かされる。ただ、事件を起こしている者の、真の目的がなかなか見えてこないので、物語全体の真相に引き寄せられてゆくこととなる。また、単に事件のみを描いただけでなく、病理学的な問題にもメスをいれるものとなっている。
「近況報告」は、その名の通り御手洗と石岡の近況が描かれているもの。ファン必見・・・・・・とういうか、御手洗もののアンソロジーなどを書く人のための詳細設定というような。
<内容>
「踊る手なが猿」
「Y字路」
「赤と白の殺意」
「暗闇団子」
<感想>
「踊る手なが猿」は、ロジックとかトリックとは無縁なのだが、ミステリ小説として非常によくできている。まさにミステリ短編小説のお手本というようなもの。特にこれといった探偵も出てこなく、普通の人々の痴情の様子を描いたものであるのだが、登場人物の感情面、ストーリーともによくできている。普通に終わらせるだけでなく、“ハヌマンラングール”という謎を付け加えることによって、さらに物語に厚みを出しているところは見事。
「Y字路」は、倒叙小説であるのだが、話が進んでいくうちに思いもよらぬ方に展開していくという内容。とはいえ、一見完全犯罪のようであっても、冷静に見てみれば穴だらけ。ただ、語り手である女の心情に共感を覚えるとやるせないものが残る。この作品のみシリーズキャラクターである吉敷が登場している。
「赤と白の殺意」は、とある青年が過去を追うというストーリー。短めの話。青年単独ではなく、途中から道連れとなる女性を加えることにより、全体的な暗さを良い意味で薄れさせてくれている。
「暗闇団子」は、遺跡の謎から見出された物語が語られるというもの。やや江戸の情景描写が多すぎるような感じ。物語としては面白いのだが、花魁と主人公との恋が唐突過ぎて、現実味が薄いように思われた。
<内容>
大学を卒業し、首都道エンジニアリングという会社に就職した“私”は、日々生活をしながら、自身の気持ちが腐食し続けてゆくのを感じていた。道路事情に詳しくなったことから、日本の道路問題の過去から現在を見据え、そして腐敗してゆく様を目の当たりにしてゆくさなか、“私”はトパーズと出会うこととなる。トパーズとは、寺で飼われていた虎の子供の名前であり、その美しさに魅入られ、“私”はトパーズの成長を見守ってゆくのであったが・・・・・・
<感想>
昔読んだ作品を再読。私は集英社文庫版を持っていたので、そちらを読み直した。その後、原書房から愛蔵版みたいのが出たり、講談社文庫からは“都市のトパーズ2007”と改題されたものが出たりしている。
中身については、都市論を語りたいのか、トパーズ(虎)との邂逅を描いた物語を書きたいのか、中途半端な内容になってしまっているという印象。特にトパーズ部分についての描写が少ないと言うこともあり、最後の展開が取って付けたようにしか思えなかった。
都市論については、島田氏自身が言いたかったというよりも、あくまでも物語上の主人公というフィルタを通しての主張と感じられた。それゆえ、やや暴論に近い部分もあるようにも思われる。ただ、こういった思想というのは、島田氏と同年代くらいの人が普通に思い描いているものなのかなと考えさせられる。私自身は島田氏よりも二回りくらい年下であるが、ここで書かれている思想については、ほとんど共感できなかった。やはり年代によって、そういった社会思想の隔たりというものはあるものなのかなと感じてしまった。
<内容>
横浜市の暗闇坂にある屋敷で奇妙な事件が起きる。台風一過の次の日、その屋敷の住人が屋根の上にまたがった状態で死んでいるのを発見されたのだ。また、屋敷の当主である老婆は屋敷にそびえたつ楠のもとで重傷を負っているのを発見される。この事件を聞き及んだ御手洗潔は、この不思議な事象に興味を覚え、自ら積極的に事件について調べ始める。その屋敷は、かつてジェイムズ・ペインという英国紳士が住み、海外の学生向けの学校を営んでいたという。ただ、ある日を境に学校経営をやめ、妻や子供を残して単身イギリスに帰国したという。その子供のうちのひとりは松崎レオナといい、テレビなどで活躍する有名人であった。一見、大したことのなさそうな事件であるが、御手洗はその裏に潜む陰惨な事件性を感じており・・・・・・
<感想>
読むのは3回目くらいになるだろうか。感想を書いていなかったので、再読してみようと手に取った作品。最近新装版が出たものの、その前に購入した講談社文庫版を持っていたので、そちらで再読。
一応、本格的な推理小説ではあるのだが、現在起きた事件の謎を解くというよりは、過去に起きた事件を紐解くという趣の方が強かった気がする。事件を捜査する御手洗も、現在起きたことよりも事件の背景に気をとられ、ひたすらそちらを調べていくという感じであった。
本書で注目すべき点は、最初から御手洗潔が登場していて、しかも御手洗自身から積極的に捜査活動をしていくということ。シリーズ後半になると、こういった展開の内容が少なくなっていった気がするので、精力的に動く御手洗潔を見れたことが何よりと思える作品であった。
本書における謎としては、楠の曰くとそこに隠された秘密、屋根の上で発見された死体の謎、ジェイムズ・ペインの過去と現在、かつて暗闇坂で起きた少女惨殺死体の謎、スコットランドの村で発見された巨人の家の謎、そしてこれら事件を結ぶと思われる真犯人の存在とは? といったものとなる。
私は3回も読んでいるので、さすがに大雑把な内容は覚えていたので、さほど新鮮味はなかったのだが、物語の流れとしてはよくできていると思われる。現代に起きた事件も、それだけを見るのではなく、過去に起きた事件から、という風に見ていくと、どこか壮大な流れを感じ取ることができるものとなっている。
また、この作品では、後に色々な作品に登場する松崎レオナが初登場している。この後の作品で、松崎レオナが重要な役割をすることがあるので、御手洗潔シリーズの分岐点として、この作品は予め読んでおいた方がよい作品と言えるであろう。私自身も、ここから感想を書いていない「水晶のピラミッド」「眩暈」「アトポス」と辿っていくつもりである。
<内容>
ピアノと日本語を教えていた40前の笹森恭子が自殺体として見つかった。しかし、現場の状況から殺人の疑いも捨てきれなかった。そうしたなか被害者ともめていたとされる作家が殺害されたという報がもたらされる。作家は笹森から“ら抜き言葉”に関することで過剰なクレームの手紙をもらっており、それを受けて作家がエッセイなどで応酬をしていたのである。しかし、そんな言葉の使い方だけで殺人が起こるのか・・・・・・警視庁捜査一課の吉敷は笹森恭子の背景を調べはじめる。
<感想>
再読であるが、この作品のタイトルのインパクトは随一と言えるのではないだろうか。“ら抜き言葉”って何? というところから始まり、なおかつその“ら抜き言葉”が原因で殺人って!?
内容に関しては、序盤は意外と派手であり、のっけから3人の死体が発見される。ひとつは明らかな殺人によるものであるのだが、他の二つは自殺のように見られる。果たしてその真相は? というもの。
ただ、作品全体としては印象がやや薄い。というのは、この作品は“ら抜き言葉”のみを扱っただけではなく、他の社会的な問題もいくつか取り扱っており、それによって“ら抜き言葉”の存在感がぼやけてしまっている。特に最終的な真相についても、他の社会問題が浮き彫りとなって来るものであり、本書は“ら抜き言葉”に関する小説ではなく、さまざまな問題を取り扱った社会派ミステリというものになっている。まぁ、それでも島田作品というだけではなく、この作品のタイトルにより手に取ってみたという人もいるのではなかろうか。
<内容>
アレクスン財閥家のピラミッド研究家であった故ポール・アレクスンの手によってアメリカの孤島に建てられたガラス製のピラミッド。そのピラミッドを使用して、レオナ・マツザキ主演となる映画“アイーダ'87”の撮影が行われることとなった。現地へ赴いたレオナであったが、そのピラミッドにて事件が起きてしまう。ピラミッドに併設された7階建てくらいの塔の最長部の部屋で、現在のアレクスン家の当主のリチャード・アレクスンが死亡しているのが発見された。しかも、誰も部屋に立ち入ることのできない密室の状態のなかで、死因は溺死という不可解な状況。前日、レオナはピラミッドの周辺で、まるで古代エジプトに伝わる神“アヌビス”のような顔をした怪物を目撃していた。その怪物は事件に関係があるのだろうか? 警察も全く手に負えない状況のなかで、レオナは日本にる御手洗潔に助けを求め・・・・・・
<感想>
これが3回か、4回目くらいの読書となるのだが、何故か感想を書いていなかったので、再読しなおし。この作品、何度も読んでいる割には、部分部分でしか覚えていない。今回読んでみて、その理由がはっきりした。それは、プロローグとも言える前段の物語部分が長すぎること。しかも、この長い物語(過去のエジプトの物語と、タイタニック号の沈没の話)、別になくても「水晶のピラミッド」というミステリが成立してしまうのである。ゆえに、読み終えて時が経つと、この長いプロローグのせいで、物語全体がぼやけてしまうこととなるのであろう。
肝心なミステリ部分であるのだが、そこはしっかりとできていて、読んでいて満足させられるものとなっている。現代に建てられた巨大なガラス製のピラミッドの謎。ピラミッドが建てられた島の周辺で目撃される怪物の正体。そして、密室殺人事件の謎。これらが全体的な物語(プロローグ部分は除く)としっかりと噛み合ったものとなっている。
探偵・御手洗潔が解き明かす謎として、実に魅力的に作り上げられている。そして、その解き明かし方も良い。ちょっと長めの作品ではあるが、島田荘司氏の壮大なミステリを堪能できる作品となっている。
<内容>
映画俳優の大和田剛太の自宅に差出人不明の小包が届く。大和田の妻が包を開けると、中からは切断された右手首が表れた。その手首は大和田剛太のものと確認されるも、誰が何のために送ったのか全く不明であった。管轄違いの事件でありながら、暗礁に乗ったこの事件の存在を知った吉敷竹史は興味を持ち、事件捜査を乗り出す。しかし、元々相性の悪い主任と喧嘩し、売り言葉に買い言葉で1週間以内に事件を解決できなければ吉敷は警察を辞めることを約束させられ・・・・・・
<感想>
再読。このへんの作品となると、初読からかなり期間があいたということもあるが、他の作品と内容を混同してしまっていて、益々どんな内容だったかわからなくなってしまっている。
読んでみると、意外と普通の警察モノで捜査主体の小説として仕上がっていた。ただし、主人公の吉敷が上司と喧嘩し、事件を1週間以内に解決できなければ警察を辞めるという期限付き。そうしたなか、管轄外の事件を単独で調べるというある種の暴挙に挑むこととなる。冷静に考えてみれば、何気に主任のほうが常識的と言えないこともないような・・・・・・
そんなことはさておき、内容は映画俳優の腕が小包によって自宅に送られてきたという事件。普通ならばその後、犯人からの何らかのアプローチがあるはずなのに、何のアクションもなく、事件はそのまま放置。それにより、何故このような事件が起きたのか、はたまた被害者はどこでどうなっているのか、何もわからないまま迷宮入りとなってしまっている事件。
そんな事件を調べていくうちに、吉敷は行方不明の俳優が映画を撮っていた際に、主演女優とトラブルを起こし、そこで何らかの事件につながってきたということを推理し始める。そして“飛鳥のガラスの靴”という物語の存在が見えてくることにより、事件解決への糸口をつかみはじめる。
一連の流れとしては、行方不明となった俳優は基本的に良い人で、事件などを起こすような人ではなく、誰からも恨まれていないというもの。というわりには、真相がわかると、それだけ大きな出来事を起こしていれば、十分噂になっているだろうというようなもの。この辺は、時代性の違いというようなものではなく、ただ単に物語創作上のおかしな点としか言いようがない。ただ、全体的に地味な内容の小説ではあるものの、コツコツと捜査を積み上げていって、徐々に真相にたどり着くというスタンスは見ごたえがあったと感じられた。
あと、吉敷シリーズものとして、最初に吉敷と通子との諍いのようなものが書かれているのだが、この作品内では未消化であり、むしろ通子に関する部分はわざわざここで書かなくても良かったのではないかと思われた。私はちょうど、この後の作品となる「龍臥亭事件」を読んでいたので意味合いがわかっているのだが、そうでなければ読者は何が何だかわからないままで終わってしまったという感じであろう。
<内容>
「ドアX」
大女優を夢見る女は、占い師から“X”という文字の書かれたドアを開けたところに、あなたの夢をかなえてくれる人がいると言われ・・・・・・
「首都高速の亡霊」
マンションに住む女は、植木鉢を落としてしまい、ふとしたを見下ろすと地面に男が倒れているのを発見する。女は、事件を隠ぺいしようとして・・・・・・
一方、とある会社の社長が会社を首になった男から、汚職を理由に金をせびりとられかけるのだが・・・・・・
「天国からの銃弾」
定年した男は、息子夫婦の家族を連れて富士山が見える土地へと引っ越した。そこからは富士山と共にラブホテルのシンボルとなっている6体の自由の女神を望遠鏡で覗くことができた。あるとき、息子が自由の女神の目が赤く光ることがあることに気づき、とある行動をとるのであったが・・・・・・
<感想>
島田氏のノン・シリーズ短編集(もしくは中編といってもよいくらいの分量)を再読。久しぶりに読むので、内容については全く覚えていなかった。全編、社会派ミステリのような体裁となっている。といいつつも、社会派的な部分を必ずしも推しているわけではなく、背景として使われているのみというような感じがし、ミステリ的な内容とはあまりマッチしていないような気がした。
「ドアX」は、読みながらも大女優のパートの部分はどうしても疑いの目で見てしまわざるを得ない。そして、想像通りにやや残酷な結末が待ち受けている。背景に地上げを用いているところあたりが社会派ミステリっぽいが、内容的にミステリがどうか微妙な感じ。
「首都高速の亡霊」は、人が死ぬ残酷な中身ではありつつも、どこか喜劇的なものが感じられる内容。マンションに住んでいる女による死体処理と、元部下から脅された男の突発的な殺人計画を描いている。その殺人に至るところに、建設関係の内幕が描かれたり、天下りの世界が暴露されている。ただ、酒に酔った男が相手を脅すのに、周囲に人がいるバーのなかで話しているところについては違和感があった。死体の移動については島田氏であればお手の物という感じであるが、この作品ではその方法が焦点ではなく、結末に待ち受けている滑稽さに尽きるところであろう。
「天国からの銃弾」は、ラブホテルに建てられた自由の女神像の目が光るといいう奇妙な謎を扱ったもの。そこから殺人事件に発展し、さらには一般社会に出回る覚せい剤の存在についても言及した内容となっている。これまた、“謎”に焦点を合わせた作品ではなく、ラストにおいて主人公の75歳の男がとる行動をこそが一番描きたかった場面なのであろうと想像させられる。“場面”としてはそれなりにインパクトのある作品と言えよう。
<内容>
三人の男女を殺害したという事件で逮捕された門脇春夫は、17年の収監の後、死刑を執行されることとなった。最後の際に、門脇は自分は無実だと訴える。そして、死刑が執行される際、門脇は自分の人生を思い返し・・・・・・
<感想>
再読。この作品は結末が印象的であるので、その場面についてはいまだに忘れず覚えていた。
本書は当時島田氏が「秋好事件」という冤罪に関するノン・フィクション作品を書いていて、そこから派生して描かれた作品である。ゆえに本書も冤罪を描いた作品であり、ひとりの男の人生を描いた作品でもある。
ゆえにミステリというわけではなく、社会派小説とでもいうべき内容の作品であるのだが、死刑囚の一抹の人生を描いたかのような書き方に惹かれるものがあった。これは読了後、記憶に残り続ける小説であるということは間違いない。
<内容>
御手洗潔が日本を去って、1年。今では横浜馬車道に一人で住む石岡のもとに二宮佳世という女性が訪れ、悪霊払いに岡山県の山奥に一緒に行ってもらいたいと頼まれる。しぶしぶながら一緒にいくこととなった石岡。当てもないまま訪れた岡山県で二人がたまたま遭遇したのは龍臥亭という元旅館の建物。石岡はその龍臥亭で、世にも不思議な事件に巻き込まれることとなる。密室の中での銃殺事件、次々と起こる殺人事件。死体が何者かに奪われ、奇妙な装飾をされた状態でところどころで発見される。そして奇妙な行動をとる幼い娘を連れたミチと呼ばれる女性。様々な事件が続くなか、石岡は御手洗を頼ろうとするものの、外国にいる御手洗とは、きちんと連絡がとれず、石岡自身が事件に挑むこととなる。やがて、過去に岡山県で起きた連続殺人事件の存在が浮かび上がり・・・・・・
<感想>
カッパ・ノベルスで出た当初に読んだ作品であり、それ以来の再読。というわけで24年ぶりに読み直してみた。毎日、すこしずつ読もうと思って9月くらいから読み始め、今年中に読み終わればいいなくらいに思っていたのだが、意外と早く読むことができた。
長い作品であるのだが、冒頭から意外と面白く、内容に引き込まれるものとなっている。この辺は、書き手の力量にも関係しているといえよう。序盤から密室での銃殺事件が起こり、息をつく暇もなく殺人事件が次々と起こる。すると、それら死体が消失し、後に不可解な装飾を加えられ、ときにはパーツがバラバラとなった状態で人々の前に現れることとなる。そうした状況が続く中、石岡を含めた人々はなすすべもなくただ右往左往するばかり。
途中から、石岡が探偵としての使命が芽生え始め、頼りないながらもなんとか御手洗抜きで事件を解決へ導こうと、色々と調べ物を始めてゆくこととなる。そうしていくうちに、過去に起きたさまざまな猟奇事件が浮かび上がり、さらには岡山県で起きた大量殺人事件の背景と事実について言及していくこととなる。
そんな感じで話が進んでゆくのだが、とにかくミステリとしては五里霧中というような感じ。大量に死体は出るものの、動機が全く表に出てこず、ゆえに容疑者すら浮かび上がらないという状況。そんな状況が延々と続く。とにかくページ数が長い作品であり、前半はまだ普通に読み込めるのだが、後半になるとさすがにいささかダレてきてしまう。しかも一番の問題点と言えるのは、後半でいよいよクライマックスというときに、“津山三十人殺し”の詳しいいきさつと、当時の状況が長々と語られることとなる。最後の最後に来て、その展開は読んでいて厳しいものがあった。
また、探偵としての使命に目覚めた石岡であったが、結局のところ事件はなし崩しに解決してしまったという感じであり、探偵らしさがほとんど出てこなかった。この辺は御手洗潔シリーズというよりは、なんとなく金田一耕助シリーズを思わせるような展開。個人的にはもう少し石岡に頑張ってもらいたかったところ。あと、作中で最重要キャラクターと思われた“ミチ”という女性であるが、ほぼ見せ場なしで終わってしまったというのも・・・・・・。その存在は事件に関して重要なキーとなっていたのは間違いないことではあるのだが。まぁ、この辺は次の作品へと続くということであったのだろう。
読んでいる途中は、ミステリとしてそれなりに面白いと感じられたのだが、最後の最後になって、実は“津山三十人殺し”を書きあらわしたかったゆえのミステリとわかり、ちょっと拍子抜けした感もある。あまりにも実在の部分を書きあらわし過ぎた内容になっていたなという感じ。
<内容>
「IgE」
「SIVAD SELIM」
「ボストン幽霊絵画事件」
「さらば遠い輝き」
<感想>
久々に再読。とはいえ、「島田荘司読本」や「御手洗さんと石岡君が行く」に掲載されていたときにも読んでいて、すでに複数回読んでいるものもある。ただ、ミステリ的な内容の「IgE」と「ボストン幽霊絵画事件」については、ひょっとすると読むのは2回目くらいかもしれないので(そんなこともないか?)、あまり覚えていなく新鮮な感じで読むことができた。
「IgE」は、まさに御手洗潔が活躍する本格ミステリそのものという感じのもの。最初は、ホームズ譚の「赤毛連盟」のような感じで始まるものの、そこから連続便器破壊事件があらわになり、なんやかやとわけのわからないうちに、狂暴そうな男たちが集まっての大騒ぎとなってゆく。様々な伏線が見事にはまっていく様が心地よい作品。また、タイトルの「IgE」に込められたとある動機が面白い。
「ボストン幽霊絵画事件」は、御手洗潔が学生時代を過ごしていたアメリカで起きた事件を描いたもの。ただ、事件と言っても看板に銃が乱射されたのみで、誰もが大したこととは思っていない。そこから御手洗が殺人事件の存在をあぶりだしてゆくこととなる。この作品のメインは、事件前に起きたものより、事件が明らかになった後に起きたことの方が“奇想”という感じで表されている。そんなわけでちょっと変わった感じの作品。
他の2編はミステリ外の内容のもので、御手洗潔のその時の近況を描いたもの。「SIVAD SELIM」は、御手洗潔の人でなしっぷりではなく、石岡和己のわがままっぷりが表されていると思えてならないのは私だけか。よく石岡は御手洗に付き合っているなというよりも、よく御手洗は石岡に付き合っているなと感じてしまう作品。タイトルの意味がわかったときには何気に感動。
「さらば遠い輝き」は、松崎レオナが本人たちが知らないところで石岡和己に嫉妬する話。この作品は、御手洗の口から、あの言葉を語らせるためだけにある作品だと言っても過言ではなかろう。
<内容>
天橋立に娘と住む、吉敷竹史の元妻・加納通子は娘が生まれてからは精神的に安定してきたものの、今でも過去の悪夢に苛まれていた。それは、“首なし男”に追われるという奇怪なものであった。通子は、幼少時代のことを思い出し、自らの半生を振り返る。誤って藤倉家の一番下の息子を死なせてしまった事件。これは後に藤倉兄弟との凄惨な因縁を生むこととなる。また、通子と父母が住む家に麻衣子という若い女が住み始めた件。その麻衣子との思い出を振り返り、通子は麻衣子がどのような生い立ちであったのかを調べ始めることに・・・・・・
一方、警視庁捜査一課刑事・吉敷竹史は、霞が関の裁判所内で、上司・峯脇と老婦人とが言い争う光景を目撃する。老婦人は、獄中にいる死刑囚の夫の冤罪を主張し、再審請求のため奔走していた。その事件は40年前に起きた恩田事件と言われるものであり、吉敷でさえも知っているような大きな事件。図らずも、吉敷はこの事件に関わることとなる。そして、事件を調べていくうちに、その事件が元妻の通子に因縁があることを知り・・・・・・
<感想>
久々に再読したのだが、長い・・・・・・とにかく長い。しかも内容において、妙に生々しい描写や、厭な感じに表現されているものが多く、内容からしてもなかなか読み進めることができなかった。それでも、最後まで読むと、それなりに達成感には満たされる。
この作品から島田氏の作品を読むという人は少ないとは思われるが、本書を読む前に吉敷シリーズをいくらかは読んでおいたほうが良いと思われる。特に「北の夕鶴2/3の殺人」は必読である。私は初読時に、この「北の夕鶴〜」を読んでいなかったので、それゆえピンと来なかった部分があったと思われる。
本書は吉敷シリーズに度々登場する、吉敷の元妻である加納通子の半生を振り返ったものとなっている。通子が何故奇怪な行動をとるのか、何故吉敷の元から離れていったのか、そういったことの答えが本書に描かれている。この加納通子の半生こそが本書において一番書き上げたかった部分であったのだろう。
そして、もう一つの本題となるものは、通子のパートとは別に吉敷が冤罪事件の再調査にあたるというもの。こちらは吉敷の上司の嶺脇とのシリーズを通した因縁も含めて描かれている。吉敷が調べることとなった冤罪事件は40年前に嶺脇が犯人を挙げた事件であったのだ。そういうことで、こちらのパートもシリーズとして重要であり、吉敷の今後の分岐点としても注目されるところ。
一応、通子と吉敷の話が重なるところもあるのだが、事件の解決に関して言えば、さほど重要な関係性ではなかったような。それゆえ、あくまでも物語上で通子の人生と吉敷の捜査が重なり合うということのみと捉えられる。最終的には、冤罪事件には一つの解決が見られ、さらには通子と吉敷のシリーズを通してのひとつの結末のようなものが描かれている。その後もシリーズとしては続いているが、ある意味二人の関係については、終着点というか結末がついたとみられるのではないだろうか。そうした、結末の部分を読んでいると、ここまで長い物語を読み通してきたかいがあったという気にはさせられた。
<内容>
「鈴蘭事件」
「Pの密室」
<感想>
再読であるのだが、細かいところまではよく覚えていなく、新鮮な面持ちで読めた。また再読してみると、思っていたよりもよく出来た作品と印象付けられ、これは改めて読んでみてよかったなと。
この作品は探偵・御手洗が幼少時に起きた事件を描いたものであるのだが、その御手洗自身の年齢があまりにも幼すぎるかなと。「Pの密室」は小学2年生で、「鈴蘭事件」は幼稚園のころに起きた事件。この年齢設定があまりにもそぐわないと思えたのが一番微妙な点。どちらの事件についても小学生の高学年くらいであれば、まだ理解できたのであるが。ただし、その年齢設定以外については申し分なくよく出来たミステリであると感じられた。
「鈴蘭事件」は、バーの経営者である夫が死亡し、そのバーの客である電気屋の男がバーの妻を人質にして立てこもるという事件が起きる。これをバーの娘(5歳)のえり子に頼まれ御手洗少年(幼年?)が事件解決に挑むというもの。
謎のガラスの破片と、電気屋の主人というパーツがうまく合致したミステリ。そこに“鈴蘭”というキーワードを加えてうまく処理している。そこで話は終わりではなく、事件の影に隠れた黒幕の存在までが暴き出されるのはなかなかのものではないかと。
「Pの密室」は、閉ざされた家で、展覧会の審査を務める画家とその愛人が殺害されているのが発見されるという事件。愛人の夫が事件当時現場をうろついており、容疑者として逮捕。しかし、どのようにして密室の状態にしたのかなどといった事件の経緯が全く分からないまま警察の捜査は煮詰まってしまう。そこに御手洗少年が事件解決の糸口をもたらす。
これもうまく考えつくされた作品。展覧会に出品された絵の枚数と、奇妙な間取りの部屋、そこにピタゴラスの定理が用いられ事件解決の一端へとつなげられてゆく。その殺人に関わる人間模様がまたうまく描かれており、このような密室ができあがったというディテールが実にうまく表されていると感心させられてしまう。これまたよく出来た本格ミステリであるとただただ感嘆。
<内容>
「里美上京」
「大根奇聞」
「最後のディナー」
<感想>
「大根奇聞」は心暖まる奇跡の物語といっていいだろう。殺人などは出てこないが十分ななぞ解きとなっていると思う。結末も結構自分の好みである。
「最後のディナー」は推理と社会派的な内容がうまく溶け合った話になっている。最近の島田氏の話は本格よりも社会派に傾きかけているような気がするのだが、この作品はうまく社会派的内容がでしゃばらずにちょうどいい具合に仕上がっていると思う。謎解きという話ではないが老人の晩年の生き方がだんだんとあらわになっていくさまには悲しみと強さが確かに感じられた。
<内容>
レオナ・マツザキの親友であるハリウッド女優のパトリシア・クローガーが殺害された。しかもその様子をビデオに収めてという陰惨な方法で。犯人はビデオのなかで次の被害者はレオナだと予告していた。親友の無念を果たすためにレオナは刑事のエドを半ば無理やり協力させ、犯人の正体を暴き出そうとする。そんな折に、レオナはジョアンという女優志望の女を紹介される。彼女は記憶を失くしており、イアンという青年と旅をしていたことは覚えているものの、彼と別れた後の事が思い出せず、気が付いたら、あたりを彷徨っていたと。そんな彼女に興味を持ったレオナはジョアンを屋敷に住まわせることとし・・・・・・
<感想>(再読:2024/9)
かつて読んだ作品であるが、何故か感想は書いていたのだが、あらすじを書いていなかったので、どんな作品だったのかを思い出すため再読。この作品、分厚いのと、ややこしいところが少々あるため、内容を把握しづらい。といっても、難解というわけではなく(生物学的にややこしい説明はあるが)、横道にそれるような挿話が多いところがやっかいなのである。今回は、一気に読み上げたために、全体をきちんと把握することができた。
基本的にはハリウッドで起きた惨殺事件を解決するというもの。ビデオで撮られた殺人映像(いわゆスナッフ・フィルム)を巡るものとなっている。そこに色々な要素を盛り込んでいるがゆえに、長大な作品となっている。記憶を失った女優志望の女、ジョアン。そのジョアンと一緒に旅をしていたというケルト神話に精通するイアン。そしてハリウッドという世界に生きる人々の過去と現在。さらには臓器移植シンジケートといったものが語りつくされてゆく。
そうした状況を整理しながら、レオナが刑事エドの手を借りつつも、基本的には孤軍奮闘とも言える捜査を繰り広げてゆく。ただ、その当のレオナ自身にも暗い影が射し、これら事件に裏でなんらかの関りがあるのではないかと疑われることになる。そして待ち受ける真相は如何に!? という内容。ちなみに、御手洗潔が電話により、臓器移植に関する知識をレオナに説明するという役割のみで登場している。ゆえに、今回は主人公を張るのは完全にレオナの役割となっている。
読み終えてみれば、面白い作品とも言えるが、なんとなく無駄も多かったとも思われる。十分に長い作品なので、余計な挿話は省いたほうが、読みやすかったのではと感じられる。また、レオナのパートとジョアンのパートの配分もしっくりといっていなかったような感触を受ける。そういった部分を整理すれば、さらに面白い作品となったのではなかろうか。
そんなわけで、島田氏の作品にしては、やや読みづらかったかなという感じがした。とはいえ、臓器移植などの科学的な分野や、イングランドの神話を取り入れたりと、こうしたところは著者らしさが十二分に発揮された作品と言えよう。あと気になったのは、最後にこの後の事件を示唆したものがあったのだが、そちらはまだ出ていない作品に関するものなのだろうか。それとも過去に出た、既存の作品につながるように書かれたものなのであろうか?
<感想>
「水晶のピラミッド」以降見られるような、断片的なネタを寄せ集めて一つの物語にしたような形になっている。今回のものは、LAにおけるハリウッドというところ、パトリシア・クローガー事件、記憶を失い子宮をとられたというハリウッド死亡の女性ジョアンと彼女とともにいたはずでケルト神話を語ったというイアンという男、ポルノフィルム。このようなものを題材として一つの小説となっている。ただし、それらがすべてうまくつなぎあっているようにみえないのが欠点である。どうも、ジョアンが主題の部分とイオナが主題の部分とのバランスがあまりよく感じられない。雑誌掲載という形式のせいでもあるかもしれない。
また、これは本書だけでのことでもないのだが、どうも女性主体のハードボイルドというのは妙に生々しくて好きになれない。特に島田氏が書く女性にかんしても吉敷シリーズの通子といい、後味の悪さが残る。
全体的に見てこれをレオナを主人公として描く必要があったのだろうか? ミステリー仕立てだけでなく、十分本格の要素もあるのだから御手洗物にしてもらいたかった。まだ続編もだすようであるけれどもあまり読むきにも・・・・・・
<内容>
1993年、御手洗と石岡の元にとある手紙が届く。それは、亡くなった倉持という男の孫からの手紙で、祖父が死の間際に、ヴァージニア州に住むアナ・アンダーソン・マナハンに倉持が謝っていたと伝えてもらいたいと。そして、箱根にある冨士屋というホテルに飾られている写真を見てもらいたいと・・・・・・。暇を持て余していた御手洗は、その奇妙な手紙の謎に取り組むことに。手紙に書かれていたマナハンという男は一部の筋には有名な人物で、ロシアのロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアの真相に関して裁判を行っていたのであった。御手洗と石岡が箱根のホテルを訪れると、そこで見た写真には、四方を山に囲まれた芦ノ湖にロシアの軍艦が写っていた! 湖に現れた異国の軍艦の謎と、ロマノフ王朝の真相に御手洗潔が挑む。
<感想>
この作品は「季刊・島田荘司 Vol.02」に掲載されていて、それを読んでいたので、まとめて単行本化されたものは読んでいなかった。結構、大掛かりな事件ゆえに、内容を覚えていたので、改めて読む必要もないかと思っていた。とはいえ、それから20年経ち、サイト内に感想も書いていなかったので、新潮文庫nex版で改めて再読してみた。
大雑把に言えば、ロマノフ王朝の秘密に迫るという内容。さらにその中から派生する芦ノ湖に現れた軍艦の謎。これらの歴史的なミステリを御手洗潔が解き明かすというもの。書かれていることは史実を交え、フィクションを交えという形となってはいるのだが、物語として良くできていて、説得力がある内容に仕立て上げられている。
久々に読んだものの、細部はともかくとして大きな謎については、それぞれインパクトのある内容になっているので、さすがに忘れることはなかった。それだけ、印象に残りやすい物語である。フィクションだと思いつつも、疑似歴史ミステリとして楽しめる内容。いや、むしろここまでやってくれれば歴史SFミステリのようにさえ思えてしまう。ただ、軍艦の謎はともかくアナスタシアについては、意外と・・・・・・とすら思えてしまうのだから、よくできた作品だとしか言いようがない。
<内容>
ネス湖の小村で旧約聖書の魔人が村人の体を引きちぎり、奇妙な場所に配置していく。奇怪なオーロラの出現から始まり、魔人の咆哮が鳴り響くなか、キャノンの村で連続惨殺事件が巻き起こる。驚天動地の謎、解答が秘められた“未来からの記憶”とは? 御手洗潔が新世紀に登場!
<感想>
待ちに待った御手洗潔もの。ようやくここから新たなる復活劇が始まるのか。
内容は序盤はまず、一人の精神病患者ロドニー・ラーヒムの異形の才能が取り上げられる。ここまでは21世紀本格と島田氏が称する流れに忠実に沿った展開に感じられる。そこではいくつかの謎のようなものがちりばめられているような気はするものの、大きな謎は提示されないまま次へと展開は移っていく。
スローな立ち上がりになんとなくいやな予感を抱いたのだが、場面が変わるとスプラッターホラーとでもいいたくなるような殺人劇がこれでもかと展開される。しかもそれらの行為がまさにロドニー・ラーヒムの予見どおりの展開に。ミタライは物語に終始登場しているものの彼のキレの悪さを嘲笑うかのように殺人は続いていく。そしてミタライがこの殺人劇に終止符を打とうと開かずの扉を開けたとき・・・・・・
序盤での淡々とした展開とうって変わった後半の展開はどちらかといえば「ハリウッド・サーティフィケイト」調。そしてラストは確かに見目疑うことのないサプライズエンディングが待っていた! のだが・・・・・・なぜだかあっけなく感じてしまった。読み終わった後に最初に戻って読み返すと、確かにうまく構想を練っていて全編著者の計算どおりであるということがわかる。まさに“魔神の遊戯”という題名がふさわしく感じられる本書であり、作品のできとしては水準を上回るできのはずなのであるのだが。
この作品を読んでふとこんな言葉が浮かぶ。「マジックというものは見ているときは目の前でまさに魔術が行われているように感じるが、タネを明かされるとこんなものだったのかと幻滅してしまう」と。これはホームズの時代からいわれ続けられていることでもあるのだが、ふと本書を読んでこのように感じてしまった。どちらかといえば島田氏はこのように感じられるミステリのなかでもタネの明かし方がうまい作家であったような気がする。それなのに御手洗ものの作品にこのような感慨を受けてしまうのは、時代の流れによる作調の変化によるものなのか、それとも時代が流れたことによる読み手側の受け取り方の変化なのだろうか。読み手側のミステリの夢が覚めないうちに多くの御手洗の物語を紡いでもらいたいと思っているのは私だけだろうか。